言葉の壁というものは大変高くて厚くて、普段は何の気もなしに話している世間話だって、
こんなにも普段単語を使って話しているのだと、ぐるぐると使えない頭を回しながら思う。
 
そう、まずは単語。
単語を知らなければ組み合わせて会話する事などまず出来ないのだという事を、今この場で身を持って知っている。
重い。話せない、人とコミュニケーションが取れないというのは、こんなにも重い。
 
言葉の壁というものは、全く、大して、非常に、高い。
 
 
 
 
・・・・・・・・・・・・通じない・・・・・・・・・・。
会議後の軽い立食パーティで、私はただただ日和見な笑いを浮かべてだらだらと冷や汗を掻いていた。
周りから聞こえるのは、恐らくでなくとも理解不能な横文字。
たまにジャポン、という声が聞こえるたびにそちらに顔を振り向かせて、へらりと必死で笑顔を作る。
 
結構勉強してきたつもりだったのですが・・・あ、甘かった、やはり英語くらいはマスターして来たほうがよかったでしょうか・・・。
開国してから初めての、公に開催される世界会議。
まさかこんなに沢山の国が世界にあるとは露とも思わず、言葉に至っては日本語が通じないなんていう常識は、
すぽんと頭から抜けていた。
上司に言われて慌てて勉強を始めたのが一週間前、そうですよ、日本から出るのですから、
日本語が通じないなんて考えてみれば当たり前のことじゃないですか。
通訳なんて付く訳もなく、出した資料は全て向こうに翻訳してもらったという安堵でつい気が緩んでしまっていた。
気づいてから恐れおののいて、やっぱり行きませんと飛行機なんて乗るものですかと自宅の家屋に引きこもって。
日本語を話せる人もいるから、という上司の言葉に甘えてのこのこやってきた、私がバカでした。
 
飛び交う英単語、みみずのようなスペル、どんな動きをしているのか、舌が引っくり返ったような、おかしな発音。
どうやら共通の言葉は一応英語らしくて、どの国もしどろもどろでもそれでもきちんと英語で話している。
それが英語だとわかるのは、イズとかハブとかが聞こえるから。でも、それだけ。
分かったから何だという、全く使えない情報だけ。
ああ、帰りたい、帰りたい。この場から今すぐ消えてなくなりたい。
 
正装、という事でわざわざ新調したこの着物もなんだか浮いてますし、さっきからちらちらと笑われてる気もしますし。
こんな正式な場なのにヒゲを生やした人からは、何だかわからない言葉でお尻も触られましたし。
小さいからですか?私が小さいからですか?
どうせ東洋人は小さくて英語も話せないおサルさんだと、そう言いたいのですか?
日本語が話せる人って、一体どの人ですか!上司!
 
やけに体の大きな周りの大陸人がおっかなくて、会場の隅でちんまりと振舞われた炭酸を飲んでいた時。
少し痛んでいるくすんだ金色の髪の、やけに痩せっぽちな人と、ぱちりと一瞬、目が合った。
身長もそんなに高くなくて、ひょろっと痩せてて、でも着ているスーツはぴたりとしてて。
遠くからでも見える、明るい緑色の瞳が、とても印象的だった。
大陸勢と比べても、一回り小さな細い体。あの方も、私と同じ島国でしょうか。
じっと合わせていた瞳に何と思ったのか、その人はテーブルに居る人に軽く会釈をした後に、
グラスを持って真っ直ぐ私の方へつかつか歩いてきた。
瞳を合わせたまま、お酒を飲んでいるのか、少しだけ頬を赤くして。
 
気を悪くされただろうか。ずっと、見ていたから。・・・・・・・ていうか、あれ、もしかしてあの方、
これから私の所に来るつもりなのでしょうか。
心の中で、あわわわ、わわわと声を上げる。でも顔は無表情。
 
ど、どうしましょう。こ、言葉はわかるでしょうか。何か怒られても言葉が通じないのではわかりません。
あの方、日本語は通じるのでしょうか。
何故か瞳を逸らす事は放棄し、人を避けながらこちらに歩いてくるその人を、ただただ、じっと、私は待つ。
避けて、ぶつかる時に発音する言葉は、ソーリィ。英語だ。駄目だ。あの方が日本語を話せなければ交流が成り立たない。
逃げたい。
 
金色の髪の毛を持ったその異国の人は、私の前に来ると少しだけはにかんだ様に笑って、
少しだけどもりながら口を開いた。
 
「….H….Hi, I'm arthuer Kirkland, please call me arthuer.   …What your name?」
 
かちり。固まる身体。
・・・・・・・何て言ってるのかわかりません。
ぶっつけ本番にも程があります、対人モデルの練習なんてしていません。
混乱すればするほど無表情になる癖のあるらしい私は、かちりと停止した脳内よろしく、表情も動作もかちりと固めて
目の前の彼を見る。
少し薄いそばかすのある、白い顔。私よりも身体年齢は大分下でしょうか、それでも身体は結構しっかりしてる。
印象的なグリーンの瞳は高価な宝石のようで、透明に光るそれに少し触れてみたいと思った。
何も言わない私をどう思ったのか、彼はみるみる顔を曇らせると、少しだけ、困ったようにこちらの顔を覗き込む。
 
「…Ah….Ms? 」
 
・・・・・・・ど、どうしましょう、困ってます、困らせてます。何よりも私が一番困っています。
ああ、この方、日本語喋れるでしょうか。
なんでしたっけ、貴方は日本語が喋れますか、ああ、ほら、これだけは覚えてきたではないですか。
ハロー、サンクス、ノー、あと、ええと。
もしかしたら喋れるかもしれません、日本語。取り合えず、聞いてみなければ。
私も誇り高き日本男子、国際交流のひとつや二つ、いけ、本田菊!
 
「あ、あの」
 
見上げれば、「Yah」、とぱっと顔を上げる異国人。
ごくんと一息飲み込んで、上司から教えて貰った会話の一部を、硬い発音で発してみた。
 
 
「C…Can I speak japanese?」
「………………・What? ……」
「…Can I speak…・………」
「………………So……I don't know」 
 
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・間違えた?
更に困って頭を掻く彼に、通じない英語に絶望する私。
 
これが、私とアーサーさんの出会いだった。
 
 
 
 
「・・・・・・・・何、笑ってるんですか」
「いきなり日本人に、『私は日本語を喋れますか?』って聞かれて、困ったなと思い出して」
「もう、仕方ないじゃないですか。デビュー戦だったんですよ」
 
少しだけ肌寒い、宵の刻。
仕事の合間を縫って会いに来てくれるアーサーさんを部屋に招いて話をしていたら、昔の事を思い抱いて彼は笑った。
ぽん、と持っている洗濯物を投げてやれば、アーサーさんは悪いといいながら、それでもまだ喉を鳴らす。
くすくす笑う彼の瞳は三日月に細められていて、印象的な緑色の瞳の色は見えない。
見たいなと思ってじっと見てたら、一通り笑った後に、かぁっと顔が赤く染まった。
 
「な、何見てんだよ」
「あ、すみません。私の最初のアーサーさんの印象って、瞳が綺麗だっていう事だったので」
「・・・お前、時々すごい恥ずかしい」
「そうですか?」
 
くすくす、今度はこちらが笑う。
あの時綺麗だと思った瞳は、一緒にいるうちに感情によって色が変わるのだという事を発見した。
表情豊かで照れ屋な恋人は、最近になってようやく笑顔も見せてくれる。
初めのうちはお互いにへらりとした愛想笑いみたいなおかしな笑顔ばっかりで、自分もその度に自己嫌悪になっていたものだけど。
最初の出会いがあれなのだ、仕方がない。
初対面以来何となくきまずくなって、それ以来何だか避けられるようになって、会議の場でも全然話も議題も盛り上がらなくて。
ようやく英語が話せるようになったのにと、本気で落ち込んでいたら、一ヶ月前に突然バラの花束と共に付き合ってくれと告白された。
 
嫌われてるならばまだしも、まさかまさか、好かれていたとは。
憚れているのではないかと、恐る恐る理由を聞いてみたらあの初対面の時に一目惚れしたのだと、
これまた吃驚するような事を言われた。
更に、あの時はてっきり女だと思って声をかけたのだと言う事も、その時に白状された。
 
「どうせこんな弱小国が男の姿をしてるなんて、思ってなかったんでしょう」
「わ・・・悪かったって。それに弱小だなんて、思ってねぇよ」
「そうですか?まぁ、天下の大英帝国様が」
 
ふふふと笑ってやれば、金色の、太い眉が困ったようにハの字に下がった。
 
驚きはしたが、好きだと言われて悪い気はしなかった。
何よりも驚きの方が先に来て硬直してしまった私に、彼は真っ赤な顔をしてぐいっと薔薇の花束を突きつけてくる。
鼻の先で小さく揺れる、白い薔薇。
茎は棘だらけで危ない、と言われている異国の花には聞いていたような棘はなく、代わりに彼の右手には沢山の絆創膏。
『・・・やっぱり、駄目か?』
泣きそうな顔で尋ねる彼に、思わず、ずきゅんと胸が鳴った。
咎められるかもしれないが、恐らくきっと、それで落ちた。彼の、困ったような泣きそうな顔に。
 
「結構、覚えただろ?日本語」
「そうですね」
 
少しカタコトの、たどたどしい日本語。
彼との会話は半分が英語、半分が日本語という変わったやりとりで、自分も彼と一緒に居るようになってから随分と覚えた単語は増えた。
たまに「コレは覚えなくていい」と言われるスラングは、結構彼はフランシスさん達と話す時にはよく口にしていて。
後々意味を聞いて卒倒しそうになる単語もあり、全く言葉というのは奥が深い。
日本語は言葉の響きが綺麗で、覚えて楽しいと彼は言う。
普段使っている言葉は特に気にした事は無いが、自分の国の言葉を誉められるのは、非常に嬉しい。
素直に有難うございますとお礼を言うと、アーサーさんは少し顔を赤くして笑った。
 
「お前の言葉ってのは、オレらの言葉と違って、色々奥があって、面白い」
「アーサーさんの言葉は、結構ストレートですからね。お国柄でしょうか」
 
好きなら、好き。嫌いは嫌い。
回りくどくない率直な言葉は、彼にはとても似合ってる。もう弟ではないと主張する、彼の大きな弟にも。
どちらにも取れるような言葉の多い私の言葉は、彼の言葉に照らし合わせる時に少しだけ苦労した。
これからも、こうしてお互いの事を少しずつ、知っていければいいと思う。
時間はたっぷりある。あせる必要は、無いのだから。
 
窓でも開けましょうか、そう言って、からりと部屋の障子を開ける。
今夜は晴れると言っていた。まだ肌寒さが残る季節だが、きっと星が綺麗に見えるだろう。
硝子越しに見える夜空には期待通りにきらきらした星が見えて、雲の端には黄色い月も丸く見えた。
眩しいくらいの月の光は、部屋の電気を付けているのがなんだかもったいない位で、
何の気無しにかちりと電気を落としたら、アーサーさんはびくっと身体を震わせてこちらを向いた。
 
「ほ、本田?」
「あ、いきなりすみません。でもほら、見てください。うさぎさんが餅ついてますよ」
 
にこ、と笑って夜空を指差す。いいタイミングで雲が晴れて、限りなくまん丸に近い、うさぎの月が顔を出した。
 
「あ、あのさ、今夜は、月が綺麗ですね。・・・・って、言うんだろ?」
「・・・・おや。随分粋なお誘い文句ですね」
「覚えたんだ。いつか使おうと思って」
「勉強熱心ですね。では、私も・・・・
 ・・・Could you become an other party in the bed. Artuher?」
 
こほんと咳払いをして笑って言ったら、アーサーさんは普段でも少し赤めの頬をぼんっと赤くして、ざざざっと後ろに跳び退った。
おや、と思って声をかければ、ぷしゅーと湯気を出しながら彼は小さく唸る。
 
「・・・・何処で覚えたんだ、そんな言葉」
「ハイ?あ、映画で」
「あんまり、変な言葉覚えないでくれ。心臓に悪い」
 
ストレートすぎる、と赤い顔して頭を抱える年下の彼に再度噴出して。
どうなさいますか?と手を取れば、彼は「喜んで」と笑って、手の甲に口付けを落とした。