もしさ、俺がいなくなったら、兄ちゃん悲しい?
そう、何故だか思いついたように呟いたら、隣でタイを締めてる兄は「・・・は?」と非常に不機嫌そうな顔をこちらに向けた。
自分に良く似た、鳶色の瞳。チョコレート色の髪の毛。
ひょいんと飛び出たくるんをワックスで撫で付けながら、それでもぴょいんと出てくる髪に苦戦して
結局いつも諦める。
ぴぃん、と自分のくるんも引っ張りながら笑ったら、兄は変な顔をして唸った。
「・・・何だよ、どっか行くってのかよ、フェリシアーノ」
「んーん。別に」
「変な事聞くな、ちくしょーが」
「ごめぇん」
飛び出たくるんを、ぴんっと引っ張られる。ぞくっと、軽く、背筋を走る、おかしな違和感。
コレって一体なんなんだろうなぁと思いながら兄に聞いてみたら、彼も同じように「オレもなるんだ」と
赤い顔をして、言っていた。
幼い頃に引き離された、たった一人の兄弟。顔立ちは似てるけど、性格や食べ物の好みは、全く違う。
だいたい、兄ちゃんて俺よりもアントニオ兄ちゃんと一緒に居た時のが長いから、
今更一緒になっても、いまいち違和感。
俺もトマトは大好きだけど、他にも好きなものは沢山あるし。
兄ちゃんの話すエスパーニャなまりのイタリア語は、時々、聞いてて、混乱する。
「兄ちゃん、帰らないの?アントニオ兄ちゃんとこに」
「帰るって・・・オレの家はここだぞ」
「そうなんだけど・・・」
「行かねー。ていうか、もう口聞かねーあいつとは」
「うん・・・」
ぷぅいっ。頬を膨らませてそっぽを向く兄に、軽くこもった笑いが出る。
きまずい、なぁ、と、思う。
荷物一式持って、「ただいま、フェリシアーノ」と、むすっと玄関の扉を開けられて。
ただいまって・・・・今、真夜中だけど。俺寝てたんだけど、兄ちゃん・・・。
素っ裸のまま出迎えれば、兄はどすんどすんと足音を鳴らしてリビングへ。くわぁ、とあくびをしながらのろのろ着いて行ったら、
兄は持ってきた鞄の一つから大量のトマトをシンクに投げ入れ、突然ぐっしゃぐっしゃとつぶし始めた。
ヘタはつきっぱ、手も洗わずに、湯むきもせずに。
両手を使って、真っ赤な果汁を浴びながら、それはもうぐしゃぐしゃと。まるで親の仇のように、ぐしゃぐしゃと。
トマトソースでも作るのかなぁとのんびり見ながら、「ラザニアがいーぃ」とリビングの椅子に腰かけて言ってみれば、
兄は「任せとけ」とこちらを見ないで呟いて、手を休めずに、ぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃ、トマトを潰す。
赤い汁は、キッチンのシンクをはみ出して、あちこちに散る。コンロ、洗いっぱなしの食器、水切りカゴ、床、兄の服。顔。
シンクに突っ込んでる両手はみるみるうちに、真っ赤っか。
髪の毛がうざったくなったのか、赤い手のまま髪をかきあげるもんだから、俺と同じ色の髪の毛はトマト果汁でべたべたになる。
しかもそのまま、トマト潰すし。せめて手はあらおーよ、お兄ちゃん。
くぁっとまたあくびをして、リビングのテーブルにぺたりと顔をくっつける。ひんやり。きもちい。
一人しか居ないのに、やけに大きなリビングのテーブル。何でこんなでっかいの買っちゃったんだろーなぁと、椅子に座る度にいつも思う。
ダイニングチェアは二人分。でも、一つはいつも物置状態。今日だって片付けてないもう一つの椅子には、昨日買ってきた大量のパスタが置いてある。
「・・・アントニオ兄ちゃん、心配してると思うよー」
「あいつの事は口にすんな」
「どーせ、兄ちゃんが悪いんでしょ?意地はっててもいーことないよー」
「うるせーぞこのやろー!オレん家はここだって言ってんだろーが!」
ぐしゃぁっ。
トマトの塊を潰しながら、怒鳴る兄。
うーん・・・・。
ごめんねぇ、兄ちゃん、と笑いながら、俺はまたぺたりとテーブルに頬をつける。
二人分の、ダイニングチェア。兄ちゃんと俺で選んだ、ふかふかのクッションがついた、真っ白の椅子。
南北統一、ようやく一緒になれた兄と、いろんな不動産屋を回って決めた、大きな家。
よーし、ここなら沢山絵もかけるアトリエもあるし、でかいクローゼットもあるし、何よりキッチンが広い!ここにすんぞ!
庭でトマトも作れるねー、良かったねー、兄ちゃん。
トットマトは別に・・・。
ヴェー、俺、兄ちゃんの作ったトマトソースのパスタが食べたいー。
笑いながら、新しい家にそれぞれの家具を持ち込んで、沢山の服、調理器具、キャンバス、絵の具、遊び道具。
久々に再開して同居を始めた兄とは、もう結構趣味も好みの味覚も違っていて。
最初の頃は、その違いに少しだけ焦った。訂正。かなり。
一ヶ月。二か月。そのうちに兄は結局この家にはあまり帰ってこなくなり。
兄の気に入っていた服はクローゼットから少しずつ減っていき、いつも二人分作っていた食事は、いつしか自分の分しか作らなくなるようになり。
家に居ても別に誰に見られる事もないから、こんな風に裸で過ごす事が多くなって。
兄の部屋も、兄の分の椅子も、気がつけば、俺の荷物で満たされるようになってしまった。
広い広い、男一人じゃ広すぎる家。物が捨てられない俺は、荷物ばっかり増えていく。
今日は、泊まっていくのかなぁ。後で兄ちゃんのベッドから、描きかけのキャンバス下ろさなきゃ。毛布に絵の具ついちゃってるけど、怒られるかな。
ヴェー、と無意識に声が出て、まだぐちゃぐちゃとトマトを潰してる兄を静かに見つめる。
二人っきりの兄弟、同じ色の、髪と瞳。性格は随分違うと思う。随分って言うか、正反対。
いつもいつも怒ってる兄ちゃんと、いつもいつも笑ってる俺。
別に好きで笑ってる訳じゃないんだけど。そう思ったら、兄ちゃんも好きで怒ってる訳じゃないのかな、と、ちょっとだけ思った。
「ねぇ、兄ちゃん。何があったの?俺、聞くよ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「にーいちゃーん」
「・・・・塩とコショウ、何処だ」
「戸棚ー。あ、真っ赤な手で開けないで、俺、開ける」
かたり、と席を立って、とてとてとシンクに立つ兄に駆け寄る。
素っ裸のまま、よいしょ、と少し背伸びして上の棚にある調味料を手に取って。
はい、どうぞ。そう言って、身長差の無い兄に渡してあげたら、兄はぽろりと茶色の瞳から涙をこぼした。
「・・・フェリシアーノ」
「うん」
「フェリ、オレ」
「うん」
「オレ、あ、あの野郎、あのやろー、オレを」
「うん」
ぼろぼろぼろっと涙を流しながら、ひくっと喉を鳴らす、兄。
トマト果汁で真っ赤になった両手は、シンクの中に。涙はそのまま、ぐちゃぐちゃになったトマトの上に、ぼとぼと落ちる。
ひ、ひくっ、と胸を上下させる兄を、裸のまんま両手に抱いて、頭を撫でる。
ハグと、キス。大事な人と家族にしかしない、親愛の行為。
しくしく泣く兄の涙は、そのまま俺の胸にたらたら流れて、俺はよしよしと同じ高さにある頭を撫でて、なんにも聞かずに、目を瞑った。
昔、まだ一緒に暮らして間もない頃に、「俺が居なくなったら、兄ちゃん寂しい?」と聞いたことがある。
その時は、ばかなこと言ってんじゃねーぞとすごい不機嫌な顔をされたけど。
何であの時、そんな事を聞いたのかは覚えてない。でも今思えば、この兄がいなくなってしまうではないだろうかと、思っていたんじゃないだろうか。
兄ちゃんがいなくなったら、俺は寂しいよ。
そう言うのが何だか申し訳なくて、もし、兄が「寂しい」と答えてくれたら、俺も寂しいと、返そうと思って。
残念ながら、あの時は、そう言う機会を逃してしまったけれども。
同じように素っ裸になってごそごそ、同じベッドに入る兄に、狭いよーと笑う。
「兄ちゃん、兄ちゃんのベッド片付けるからそっちで寝てよ。狭いよ」
「うるせーぞこのやろー、久々に返ってきたんだから一緒に寝かせろ」
「アントニオ兄ちゃんの所でもこうして寝てるの?」
「んなわけねーだろ、ちくしょーが!いいからとっとと寝ろ、あとくるん絡ませんなよ」
「絡まったらルート呼んで解いてもらうよ」
「冗談じゃねー」
かっかしながら怒鳴る兄に、笑う俺。
ほら、いつもいつも、彼は怒ってばかりで、俺は笑ってばっかりで。
「兄ちゃんも、好きで怒ってる訳じゃないでしょ?」そう言って枕に頭を乗せたら、兄は「あたりまえだろばかやろ」と眉を寄せた。
よかった、やっぱりそうなんだ。俺も、好きでわらってばっかいるわけじゃないから。
クスクス、笑う。笑ってさすさす、おんなじ色の頭を撫でる。
笑うのは、一種の自己防衛だ。俺は、悲しくない。寂しくない。だって、こんなに楽しいもん。一人でも大丈夫。笑ってられる。
兄ちゃんがどっか行っちゃっても、ひとりでへーき。こんな広いお家に、俺ひとり。あー楽しい。おっかしい。
そう言って、ヴェー、と笑ったら、兄はおかしな顔をして、むくっと小さく、身体を起こした。
「・・・変な笑い方、すんなよ、フェリシアーノ」
「変かな?だって、好きで笑ってるわけじゃないし」
「じゃぁ笑うなよ」
「だって勝手に笑っちゃうんだもん」
「やめろよ」
「だったら兄ちゃんも、無理して怒るのやめなよ」
「・・・うるせーな」
「ほら」
くすくす、笑って兄の首に手を伸ばす。ぽすりと枕に埋まった兄は、むすっとした顔で、怒ってねーよ、と呟いた。
「・・・アントニオ兄ちゃんのこと、許してあげなよ。そんなに実は怒ってないんでしょ?」
「お前が笑うのやめたら、怒るのやめる」
「だめだよ」
「なんで」
「だって、笑ってなきゃ、泣いちゃうもん」
「・・・泣けばいいだろ」
「やだよ。泣いたって、兄ちゃんみたいに慰めてくれる人、いないもん」
俺はいつも、笑って、皆を慰める係。
能天気で、悩みがなさそうで、空気を読まずにばかな事して、笑ってもらって、かまってもらう係。
そうしたら、皆笑ってくれる。そしたら、俺も笑える。
寂しく寂しく、一人で泣いていても、いい事なんて何もない。
地顔が笑顔なのは、もうそれが表情筋に張り付いてるからだ。意識しなくても、もう一人で笑ってられる。
悲しくない。俺が悲しそうにしてたら、兄ちゃんはアントニオ兄ちゃんの所に、帰れない。
兄は相変わらずおかしな顔をして、ぽんぽんと俺の頭を叩く。ぽむ、ぽむ。優しく、小さく。
兄には、怒れば機嫌を取ろうとわたわたと慌ててくれる人が居て、泣けば慰めてくれる人がいる。
たぶん、俺よりも、大事な人。血のつながった兄弟よりも、小さな頃から一緒に暮らした、大切な人。
瞳を閉じる。寝るから、お前も寝ろ、と頭を叩かれる。はあいと返して、肩まで、お互いに布団をかける。
明日、きっとアントニオ兄ちゃんは来るんだろうなぁ。わたわたしながら、膨れてる兄ちゃんの手を取りに。
ぼんやりそう思いながら、ゆっくり瞳を閉じる兄ちゃんに続いて、俺もゆっくり、目を閉じる。
閉じればぼんやり瞼の奥に浮かぶ、小さな頃に恋をした、初恋の、あの、男の子。
名前はもう、忘れてしまった。顔ももう、何となくしか覚えてない。
一緒に行こうと言ってくれたあの子は、今も元気にしてるだろうか。
彼の前では、俺はいつも、困って、笑って、怒って、彼が旅に出ると言い出した時は、お願いだから行かないでと泣いて縋れた。
泣いていれば、困ったように抱きしめて、慰めてくれた。我儘を言えば何とかそうしてやろうと、俺の為に走り回ってくれた。
大事な、大事な、初恋の人。
もう俺の事なんて忘れてしまっているだろうか。
大きく夢に描いた旅の目的は。理想の帝国を築くという壮大な夢は、果たせたのだろうか。
いつか迎えに来るからな、そう言ってキスをくれた、あの人は。
小さな頃の、お伽話みたいな、おままごとみたいな、おかしな約束。
それをずっとずっと待ってる俺っていうのは、やっぱりどこか、おかしくて、笑える。
笑いたくなんかないけれど、仕方がないじゃなんか。やっぱりおかしいよ。笑っちゃうよ。
泣いたら、自分が可哀そうな子みたいじゃんか。せめて俺だけは、俺を笑ってあげないと。
ふふっと声を漏らして、兄に抱きしめられながら、笑う。
笑ってんじゃねーぞ、ちくしょーが。泣きたいなら泣けよ、二人っきりの、兄弟だろが。
体格の変わらない、兄の薄くも厚くもない胸が、軽く上下して、暖かい。
とくとく聞こえる心臓。不随意で動く心筋は、こんなにも俺を安心させてくれる。
俺には家族が居て、友達が居て、仲間が居て、美味しいものが傍にあって、外に出れば可愛い女の子も一杯いる。
幸せだと思う。沢山の人に、愛をいっぱい貰ってる。だから、俺も返すんだ。
でも、誰も、俺の一番にはなってくれない。
俺を、一番にはしてくれない。
悲しいとは思わない。それでいいんだ。俺はそれで、いいんだ。
好きな人は、いつか、俺を迎えに来てくれるって、言ってたから。
ぽんぽんと、兄の、同じ色のした髪の毛を撫でてやる。
ほどなくして聞こえてくるのは、すぅすぅとした軽い寝息。目元を見れば、色素沈着した、青い隈。
何があったかはわからないけど、きっと泣いたんだろうなぁ、兄ちゃん。
泣くのには、結構体力が居る。しばらく泣いてないから、わからないけど。
涙にはストレス物質が含まれていて、それを流す事で精神状態が安定するんですよ。以前菊が言っていたあの言葉は、本当だろうか。
心が悲鳴を上げる前に、貴方も泣かないと、いけませんよ。
そういう菊も、だいぶ長い間、涙は流してないと言っていた。枯れ果てました、と笑ってた。
朝には、顔色変えたアントニオ兄ちゃんがどたばたと飛行機に乗って、やってくるんだろう。
一生懸命、拗ねた兄ちゃんのご機嫌を取って、おねがいおねがいで、手を引いて、俺にも「一緒に、」そう言って。
俺はきっといつもみたいに、「一人のが気楽だから、だいじょーぶ」そう言って、笑う。
ポコポコ湯気を出しながらアントニオ兄ちゃんに手をひかれて、じゃあな、と俺に笑う、ロヴィーノ兄ちゃん。
これは予想とか予感じゃなくて、過去何度もあった光景、確信だ。
いつも怒ってばかりの兄ちゃんは、アントニオ兄ちゃんがいる時だけ限定で、俺に笑ってくれる。
じゃぁな、フェリシアーノ。
うん。兄ちゃん。
またね。
兄ちゃんが嬉しければ、俺も嬉しい。皆が笑えば、俺も楽しい。
誰かの一番にならなくたって、俺には傍にいてくれる人が、いっぱい居る。
俺は、愛されてる。愛してくれる人が、いっぱい、いる。
それでも。
それでも、
「・・・寂しいよ、神聖ローマ ・・・」
一人では大きすぎる、いっぱいの荷物と、沢山の人が置いていった土産の箱。
空ける事なくたまっていくそれは、俺の心には大きすぎて。
誰か一人だけの、スペースでいいのに。小さなスペースは、いつまでたっても持ち主の居ない荷物が置かれてる。
小さなキャンパス。笑ってる、小さい頃の俺。彼を見て笑ってる、心の底から笑ってる、嬉しそうな、俺。
寂しいよ、早く、迎えに来てよ。寂しいよ。
もう一度呟いて、小さくぽろりと涙を落して。
兄ちゃんの頬に落ちた涙をゆっくり拭って、すん、と鼻を鳴らして、瞳を閉じた。