ルートー、と呼んでも彼は出て来なかったので呼び鈴を押したら、非常に、非常に苦手な、色素の薄い痩せた人が玄関から出てきた。
予想してなかったとは言わないけど、不機嫌そうにjaと言いながら出てきた彼を見て、すごく申し訳ないけど、恐ろしさに硬直した。
訂正。予想なんて、してなかった。
「・・・よーぅ。フェリシアーノちゃんじゃねぇか」
俺と目が合うなり、彼は赤い目を細めてにかっと笑った。ひさしぶりだな!と起きぬけの声で。
特に嫌味もなく、皮肉もなく、もちろん威嚇もなく。
ぶかぶかのシャツ一枚の彼は、ぺたぺたと裸足で俺の側まで来ると、きゅうぅっと細い体で抱きしめた。
細い細い、抱きしめ返したら俺の力でも折れてしまいそうな、痩せた背中。
自分よりも高い位置にある頬にキスをして、俺は小さく挨拶を返した。
「・・・ひさしぶり、帰ってたんだ。ギルベルト」
そう言ってこつりと額を合わせたら、ギルベルトはおぅっと笑って、くしゃくしゃと俺の髪をかき混ぜた。
「何だあいつ、フェリちゃんと予定あったのかよ。まだ寝てるからよー、起こしてくる」
入れ入れ、入って待ってろ。
少し躊躇った俺の手を握って、彼はそのままその足でフロントドアをくぐる。
ぺた、ぺた、と廊下に響くのは裸足で歩くギルベルトの足音。
いつの間に、ルートの家って土禁になったんだろう。
手を握られながら、左手で急いで靴を脱ぐ。
急がなくていーぜと笑うなら、手を離して欲しいと思った。細っこいくせに、力任せに握られた右手が痛い。
「珍しいね、こんな時間まで寝てるんだ」
「あー。寝たの遅かったからな」
「へー」
こぷこぷとコーヒーメーカーで湯を沸かしてカップを用意するギルベルトに、
いいよいいよと申し出はしたが、逆にいいから座れと無理やりダイニングに座らせられた。
二人がけの、小さなダイニングテーブル。
ついこの間まではこのテーブルは一人がけで、いつもルートはここで新聞を読んでて。
椅子が無いからといって、俺はふかふかのソファに腰掛けるのが常だったのに。
落ち着かない。
硬い木の椅子も、二人分のコーヒーカップも、彼の趣味では無さそうな、色のついたカーテンも。
オレのカップで悪ぃなと笑いながらコーヒーを出してくれる、彼の兄も。
下に何か履いているのかどうなのか、いまいち微妙な丈の白いシャツ。
俺には散々服を着ろ、パジャマの下を履けと煩い彼も、この人の事は黙認するんだろうか。
彼よりも一回り大きなシャツには、俺が先月こぼしたインクのシミ。
奮発したのに、もう着れないだろうが!と怒鳴られたのを覚えてる。
何だ、パジャマにしてたんだ。
そう言ってギルベルトの左手首を指差したら、彼は、ああ、と言ってまた笑った。
「何だ、コレお前がつけたのかよ。てっきりルツがやったのかと思ってバカにしてたのに」
「ルートはそんなドジしないよ。その時すごい怒られた」
「ははは」
こくり、コーヒーを一口飲みながら、笑うギルベルトを見る。
細い首、手足、骨ばった関節。色素の薄い体。否。細くなった、薄くなった、彼の体。
随分と、恐ろしいほどに、彼は変わった。
最後に会った時、彼はしっかりと筋肉の乗った体に、けぶるような金髪を持っていた筈だ。
細身ではあるけど、それこそルートと血が繋がっていると言われれば誰もが納得するような。
アメジストのような赤紫色の瞳は、ルートとは反対で、二人一緒だとペアのようで綺麗だった。
余りに綺麗だったから、少しだけ嫉妬した時もあった。
俺は、絶対に彼と・・・ルートと並んでもああはならない。守ってもらえる事は出来るけど、対等にはなれない。
正直、彼、ギルベルトの事は、実は苦手だった。すごく。すごく。昔から。
それは、全くルートと似つかなくなった今の彼を見ても、変わらない。みたいだ。
いやだな、俺。別にコンプレックスを抱くところじゃないのに。
ずずっと彼の淹れてくれたコーヒーをまた飲んで、俯く。
美味いか?と上から降ってきた言葉に、そこだけは美味しいよと答えて。
「いつ、こっちに戻ってきたの?」
「あ?エート・・・先週かな?そういや戻ってきたって、あいつ誰にも言ってねぇの?」
「どうだろ・・・俺、知らなかったから」
フェリちゃんに言ってねーなら、他の奴らも知らねぇか。
彼はそう言って、あんにゃろうと憎まれ口を叩く。
「道理で、誰からも連絡ねー筈だ。フランシスやアントーニョとかにも挨拶行きてぇのに、家からは一歩も出してもらえねーしよ」
「・・・何で?」
「知らねー。フェリシアーノちゃんからも言ってやってくれよ。オレ様はそんなやわじゃねぇっつうの」
ちぇーと口を尖らせて、ギルベルトはテーブルをとんとん叩いた。
だいぶ年上で、会うのも久々なのに、全然こういう所は変わってない。
見た目はだいぶ変わったけど、中身は変わってないみたいだ。
言っておくよ、と手を上げて、笑って、少し首を傾げた彼を見て・・・・・   ・・・・カップを、落としそうになった。
白い首の根本に残る、細い縄の跡。
目線を落とせば、袖の裾から見える、骨ばった手首にも。
髪に隠れていた、傾げた首の髪の毛の生え際には、赤紫色の噛み跡がついていた。
「ッ、ギルベルト、それ」
「?あ」
あ、だ。それだけ。あ、と言って、別段取り乱す事もなく、彼は噛み跡に手をやりながら笑った。
「コレも、言っておいてくれ。お兄様はそんな頑丈じゃねぇって」
にや、と笑って、彼は喉を反らしてぐーっと一息にコーヒーを飲み切る。
白い喉。晒された鎖骨の下には、鬱血の跡が点々と咲いていた。
あの場でカップを落とさずに、彼に掴みかからなかった自分を褒めてやりたい。
だから、苦手なんだ。昔から、昔から、昔から!
二人とも強くて、よく似てて、お互いをいつもいつも大事にしてて。
ただでさえ血の繋がりがあるくせに。それだけで、十分じゃないか。それ以上を望むなんて、どうかしてる。おかしいよ、おかしい、絶対!
かんかんと頭痛がしてきて、カップを置いた後に小さく呻いた。
大丈夫か?という、ギルベルトの声が聞こえる。
嫌味のない、裏のない声色は素なのか演技なのか、全くわからない。
左手を上げて大丈夫、と返したら、「そっか」と彼は眼を細めて笑った。
「フェリちゃんに何かあったらよー、ルツの野郎卒倒するからな、きっと。あ、オレもな!
 そんじゃぁ、ルツ起こして来るから。待ってろよ」
くしゃっと俺の頭をかきまぜて、ギルベルトは席を立った。ぺたぺた、軽い足音がキッチンに響く。
苦手だ、本当に、彼は苦手だ。
何を考えてるのかわからないし、何も考えてないのかもしれないけど。だとしたら相当怖い人だ。
形には出さないけど、昔から彼は人を寄せ付けない何かがあった。威嚇する訳でもなく、殻にこもる訳でもなく。
彼の顔を思い出そうとすれば、必ず皆口をそろえて「笑っている顔」と答えるのだけど。
あんなに生理的に苦手な笑顔を向ける人を、俺は知らない。
理由は知ってる。一つしかない。
ダイニングの扉を閉める時に、一瞬こちらを向いたギルベルトと、瞳が合った。
ほんの一瞬、もしかしたら俺が彼を見ていなかっただけで、彼はずっと俺を見ていたのかもしれないけど。
少しだけ笑ってるような気がしたその瞳はすぐに外されて、次の瞬間には「おーい、ルツールツルツー」という呑気な声と
一緒にぺたぺたと階段を上がって行く音が広い家に響いた。
赤い瞳。体はあんなに痩せて、色素はほとんどなくなって、声だって昔よりもだいぶ細くなってしまっていたのに。
宝石のように爛々と光るあの瞳だけは、昔と全く変わっていなかった。
彼が笑顔で見えない壁を作って常に周りを威嚇してるのは、間違いない。彼の弟の為だ。
笑顔で、無言で、誰も弟に近づくなと常に警告を発していた。昔から、常に、常に、毎日。
俺がこうして家に入れて貰えるのは、簡単だ、俺がルートにとって害ではないから。
俺が、ルートに対して友達以外の感情を持っていることを知ってるくせに、ルートが俺を必要としてくれている事を知っているから
こうして優しくもしてくれる。きっと、さっきも本気で心配してくれた。
生理的に苦手だというのは、あの笑顔は本心の笑顔なのに、そこに彼の感情が読み取れない事だ。
わからない。何を考えているんだろう。
さっきの縄の跡や鬱血の跡だって、彼らが何をしてたかなんて明らかだ。俺だってそこまで無知じゃない。
ルートに対しての、彼の感情は?兄弟?親子?恋人?まさか。だったら俺なんて邪魔だろう。
小さな頃からルートに恋をして、彼に守られている俺なんて。
ぐるぐるぐるぐる、止まらない思考で頭痛がする。
今日は帰ろうかな、なんて思って席を立とうとしたら、二階からどたんばたんという激しい物音と怒鳴り声が聞こえた。
「兄さん!ズボンは履けといつも言ってるだろうが!!」
「ってぇなバカルツ!!家の中でくらいいいじゃねぇかよ!」
「ヴァルガスが来てるんだろうが!全く、冗談じゃないぞ!早く服を着てくれ!」
ばたーむ!というドアの音に続いて、どすどすと荒々しい、聞きなれた足音。
ぽかんと口を開けて、立ったままの状態でいたら、さっき閉められたばかりのダイニングのドアがばんっと開いた。
「フェリシアーノ!悪い、寝坊した」
入ってきたのは、軽く息と髪を乱した、ルートヴィヒ。
所々髪の毛は跳ねてるのに、黒いシャツはきっちり第一ボタンまで閉まってて、袖のカフスもきちんとしてるのが何だかアンバランスだ。
笑える。ぷすっと笑っていいよいいよと手を振ったら、後ろからひょこっと、服を着たギルベルトが顔を出した。
ぷしゅーと頭からは湯気。たんこぶだ。
「ったくよー、折角起こしてやってコレかよ。お前が寝こけてる間にフェリちゃん接待してたの、オレ様だぞ!」
銀色の頭をさすりさすり、涙目で「なー」と俺に同意を求めてくるギルベルトを見て、つられて笑ってしまった。
特に考えもない、自然な笑い。
ルートは彼の言葉に一瞬、うっと言葉を詰まらせてから、俺に再度悪かったと頭を下げた。
オレに謝罪はねぇのかよ!と怒り出すギルベルトと、その後無言で裸締めをかけるルート。
ギブギブ、とむきむきの腕を叩く兄と叩かれる弟に、今度こそ俺は爆笑した。
ぐるぐるぐるぐる、さっきまで考えてた事が、少しだけ飛んだみたいに。
「じゃぁ、兄貴。夜までには戻る」
「おぅ。べっつに、戻って来なくてもいいぞ、若き童貞達よ」
「何言ってる!!全く・・・おい、お前も笑うな」
「ハーイ。じゃぁ行こうか、ルトヴィーゴ」
行ってきます、と玄関まで見送りに来てくれたギルベルトに笑って手を振る。
ルートの名前をイタリア語で発音したのは、わざとだ。
少し不審そうに眉をしかめるルートとは逆に、後ろで手を振り返すギルベルトは、可笑しそうに笑ってた。
相変わらず、昔から変わらず、彼の事はすごくすごく苦手だけど。
嫌いではない、むしろ、感情的には好きだと思う。それは、ルートの肉親という事だけではきっとなくて。
恐らくこれからもルートと一緒にいる限り、彼、ギルベルトとの関係はきっと変わらないんだろう。
俺が、ルートの敵に廻らない限りは。
何笑ってるんだ、と金色の眉をしかめるルートに、俺は「いいお兄さんだねぇ」と笑って彼の手を取った。