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心よ、わが心よ、一体どうしたというのか。 |
何がお前をそのように圧しつけるのか。 |
何という、異様の新しい命。 |
今までのお前の面影はもはや見るよしもない。 |
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ああ、いかなればとてかく、変わり果てたのか。 |
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「・・・・・ゲーテ?」 |
「っ、う、わっ」 |
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突然後ろからひょいっと持っていた文庫を取り上げられて、我ながら思わず情けない声が出た。 |
午前中にたまってた仕事を全部片付けて、たまには家でのんびりしようと書斎に籠った、晴れた平日。 |
少し乱れた机の上を片して、革張りのソファに腰をおろして。 |
ふかふかのクッションを抱えて、太陽の匂いのするそれに、いつもきちんとピローを交換してくれている |
兄に、心から感謝して。 |
今までの自分だったら絶対に興味を持たない、それでも最近は愛読書になってしまっている |
カバーを嵌めた小さな文庫を取り出して、静かに活字を追っていた。 |
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振り向くまでもない、突然それを取り上げたのは愛しい我が兄、ギルベルト。 |
時に厳しく、優しく、愛情を持って俺を育ててくれた、一人の家族。 |
長い分断のおかげでしばらく見て居なかった彼は、自分の記憶の中の彼よりもだいぶ痩せていて。 |
再会した際に、感極まって抱きしめた時にすっぽりと自分の腕の中に入る感触に、自分だけでなく |
彼もきっと、驚いていた。 |
でかくなったなぁ、と軽く背延びして頭を撫でてくれた顔は、きっと一生忘れない。 |
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振り返ってみると、兄はぱらぱらとなめした皮で出来た文庫カバーのついた本を捲りながら、 |
へぇとかふぅんとか言いながら、楽しそうににやにや笑っている。 |
自分によく似た、切れ長の目もと。自分とは違う、挑発的な口元。 |
ついさっきまで俺が開いていたページに栞をはさんで、ほらよ、と俺の手元に返す。 |
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「・・・ノックくらいしろと、いつも言ってるだろう」 |
「したぜ、かるーく二、三回。返事の前に入ってきたけど」 |
「それじゃ意味がない」 |
「音にも気付かないくらい、集中して何読んでるかと思えば。 |
めっずらしい、お前がゲーテ?しかもヴェルテル期。青春ですねぇ我が弟よ」 |
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ケセセっと挑発的に、面白そうに笑う兄に、俺は放っておいてくれと詩集を仕舞う。 |
何の用だと聞いてみれば、暇だから遊んでやろうと思って、と狭いソファにダイブしてくる。 |
遊んで欲しいと、頼んだ覚えはない。 |
折角早めに仕事を切り上げたのだから、ゆっくりしようと思っていたのに。 |
「俺は、昔の様な子供ではないぞ」 |
そう言ってやったら、「生意気言いやがって、このお兄ちゃま大好きルートヴィヒが」と鼻をつままれて、笑われた。 |
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まだ、俺が「ドイツ」として、自分の自我というものが無かった頃。 |
世界は、特にこの地域周辺は常に混沌としていて、兄はいつも大きな銃と沢山の兵隊を引き連れて |
あちこちを飛び回っていた。大きな傷を作って帰ってくることも、少なくなかった。 |
戦う為に生まれたんだと言っていた兄は、いつも自信満々で、不敵で、どんな時でも笑ってて。 |
たまに帰って来て、大きな手で抱きあげられて「お前の為に世界を作ってやる」と声高に言う兄は、 |
当時の俺の中ではそれが全てで、絶対だった。 |
憧れ、尊敬、裏付けのない自信と、高い自尊心。 |
彼と血が繋がっている事、彼がその手で抱き上げてくれるのは、自分だけ。 |
その事が、それだけが、唯一自分の誇りだった。 |
彼がいつも俺を周りに自慢してること、その期待に応えようと、俺はいつも我武者羅に勉強して、 |
兄に褒められる度にほっとして。嬉しくて。彼の笑顔が、好きだった。 |
彼は、俺の中でのまさしく神だった。 |
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再会して、再度また一緒に暮らせるようになってからも、それは変わっていない。 |
勇ましく、大きな姿、見た目はだいぶ変化はしたが、兄に対する敬意はそのままに、 |
今でも俺の中の神は彼だ。強く、優しい、ギルベルト。 |
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兄の方は、昔と比べて俺を子供扱いする事が少なくなり、仕事の時等は大人の男として扱ってくれる。 |
言い争いになっても、きちんと俺の意見も尊重してくれる。 |
昔は「ガキが生意気言ってんじゃねぇ」の一言で張り飛ばされたものが、変わったものだ。 |
それでも仕事以外の事では、こうして俺を昔の子供に戻してしまう。 |
狭いソファにぎゅぅぎゅぅと無理やり入り込んで、ルツルツと俺の名前を呼びながら、 |
ぐりぐりと頭を撫でてくる。 |
俺はもう子供じゃないと、常に言っているのに。 |
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「お前ももうそんな年か。お年頃か。でもちっと遅いんじゃねぇ?」 |
「からかわないでくれないか。ようやく、文学にも目が行き始めたんだ。 |
今まではそんな余裕がなかったから、むしろ早すぎるくらいだ」 |
「ゲーテに共感して心を躍らせていた時、オレはお前よりももっともっと若かったよ、ルツ」 |
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彼はそう言って笑って、目を瞑って「聞けよ」と気持ちよさそうに息を吸う。 |
力強い発音、大きく息継ぎをして、彼は両手を広げて言葉を紡ぐ。 |
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お前を限りない力でつなぎ留めるのは、あの若々しい花の姿か、 |
あの愛おしい人の姿か、真心とやさしい心に満ちたあのまなざしか。 |
逃げ去ろうと心を励ましても、たちまちに私の心は |
ああ、あの人の方へと戻っていく。 |
絶つによしない魔法の細糸で、愛くるしい快活な娘は私を否応なしに縛ってしまう。 |
魔法の環にとらえられ、私の命は思いのままだ。 |
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伏せられた銀色の睫毛、単語を発する為に動く、薄い唇。 |
情熱的に、歌うように詠みあげる彼の、何と神々しいことか。 |
腕の中で小さく納まる彼の、何と存在の大きいことか。 |
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彼は「だろ」と目を開けて笑いかけると、小さく俺の頬にキスをした。 |
赤い瞳。不吉な程に光る瞳の色は、体を流れる血の色か。 |
湧き上がる、おかしな衝動を抑えて息を吐くと、兄はケセっと笑ってソファを立った。 |
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「誰に恋い焦がれてんだよ、ルツ。そのでっかい図体で、捕まえられない奴なんて居る訳ないぜ。 |
縛られる前に、自分で縛れ。欲しいものは、自分で奪い取れ、兄弟」 |
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ぽん、と俺の頭に手を置いて、兄はそのまま踵を返して書斎を出た。 |
気分が良さそうに、鼻歌を歌いながら。気楽そうに、楽しそうに。 |
俺の肯定の言葉は聞かずに、ぱたりと扉は閉められた。 |
残されたのは、恋に焦がれた、哀れな男ただ一人。 |
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再会して、変化があったのは、この俺だ。 |
自分の中の神は、変わってしまった。 |
憧れ、崇拝し、世界の中心であった彼は、自分の中で大きな変化と共に地に落ちた。 |
否、落ちたのは、引きずり降ろしたいと願ったこの俺だ。 |
ギルベルト。ギルベルト。ギルベルト。 |
どうしたらいい、神への冒涜ともいえる、俺の気持ちを。行為を。 |
許される筈のない、犯した禁忌を。 |
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ああ、いかなればとてかく、変わり果てたのか。 |
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変わりようのない、ああ、なんという大きさ! |
恋よ、恋よ! |
私を解き放してくれ! |
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愛してるんだ。血のつながった、愛しい兄弟。 |
「Neue Liebe,neue
Leben」。俺は言葉を紡いで、体を丸めて小さく唸った。 |
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