ちゃり。
 
吐く息は白く。閉ざされた空間は空気が凍り、どこまでも虚無で嘘くさい。ここに生命は宿るのだろうか。
常に気温零度を下回る空間はひどく潔癖で、恐怖は何も感じなかった。
凍った空気の白いスモークは、綺麗だな、とすら、思った。
 
細く白く、貧弱に変化した身体にはこの鎖を切る力も、腱を切られた足では走って逃げだす事も出来やしない。
別に、逃げだすつもりなんて、毛頭ないけど。
逃げた所で行く所なんてありはしない。
唾を吐いて笑ったら、今の俺の色と酷似した冬の国の大きな子供は、氷のような冷たい手で俺の顔を触って、同じように気色の悪い笑みを浮かべた。
ようこそ、そう言って、嬉しそうに笑って、そうして、右手を振り上げた。
 
なんでこんなことになったんだろう?ああ、あれか。喧嘩に負けたからか。
解体宣言を受けた後は、自分的にはひっそり静かに、家族と一緒に暮らしていただけのつもりだったんだけどなぁ。
過去は過去。名前の無いオレには存在価値は無いに等しい。
それでも、こんなオレでも、あいつの為に、出来る事があるならば。
 
あいつの為に。弟の為に。
ルートヴィヒ、大切で、大好きで、何よりも、誰よりも愛してた、お前の為に。
たった一人の、家族の為に。
笑って、冬の国に自分から。お前を、どんな奴にも、渡したくなんてなかった。
結局、ルツはルツで欧州の奴らの世話になる事にはなったけど。それでもオレの状況からしてみれば、全然自由で、まだ良かっただろう。
 
お前は、元気でやってるか?愛しい家族。オレの、ルート。ルートヴィヒ。
 
 
 
 
寒くて寒くて、凍える身体、素っ裸で放置されて凍傷になる身体の先端、打たれる鞭の痛み、切りつけられる事は無かったが、
常に身体についた痣は消える事無く、その上から更に振り下ろされる鉄パイプのおかげで、骨は何度も折られては修復を繰り返し、
関節はおかしくひん曲がる。
国という媒体は無くなっている筈なのに、通常の人間よりも細胞分裂能力の高い身体は傷がつけばその度に活性化し、
表皮は真皮層の修復速度よりも早く、身体に大きなケロイドを作る。引き攣れた瘢痕。
基底層が壊れた肌に残った傷跡は、消える事は無く。何度も何度も鞭を打たれることで傷の上に更に大きくひきつれる傷跡は、
いつしか目を背けられる程に醜くなった。
痛い、痛い、痛い。
痛みにもがけば、冬の国の主である身体のでっかい精神の壊れた子どもは、更に嬉しがって右手に持った鉄のパイプを振り下ろす。
 
痛い?ねぇ。僕、君の声が好きだな。もっと高く鳴いてもらうには、どうしたらいい?
 
無邪気に笑う子どもの顔には、ぴぴっと散る赤い花弁。
少しイヤそうに指で拭って、部屋の壁に擦りつけて、「汚い」と呟く。
子供っていうのは、無邪気で、残酷で、恐れを知らない。
自分のしている事がどんなに相手を傷つけているか、心と身体に大きな傷を残しているか、自分が経験していないから、わからない。
手加減が無い。溜めが無い。
次はどんな手段になるのかが、全く予想できない。予想できないから、構える事も出来なくて、その度にオレは小さく呻く。
ヤメロ、言っても無駄な事は言わない。こいつを喜ばす言葉など、言ってやらない。
叫べばこの子どもは余計に嬉しがって、手を止めない。否、叫ばなくとも、叫ばせてやろうと躍起になる。
 
痛ってぇな、畜生。畜生、本気で、痛ぇ。やべぇ、意識、飛ぶかな。
 
一本一本、針金を使って生爪を剥がされる感覚に意識が白くなり始めるのを感じながら、いつも「赤くて、気持ちが悪い」と眉を潜められる瞳を閉じる。
いつか、この赤い目も潰されるかもしれない。
でもそうなったらそうなったで、別に、いい。もう、見たいものなんて、何もない。
 
少しだけ、ほんの少しだけ、大きく育っているであろう愛しい弟を、見てみたいとは思うけど。
見れる日は、来るのかな。また、あいつを抱きしめて頭を撫でてやれる日は来るのかな。
 
意識を飛ばす瞬間にいつも瞼の裏に蘇ってくるのは、オレの昔の顔によく似た、青い瞳を持った弟。
たった一人の、大事な家族。
ルートヴィヒ。
よかった、こんな扱いをされるのが、オレで、本当に良かった。
 
お前は、元気でやってるか。誰もお前を傷つけてはいないか。泣いてはいないか。寂しくはないか。
出来る事なら、もう一度会いたい。
ルツ。ルッツ。ルートヴィヒ、オレの、弟。
 
愛してるよ。誰よりも。
 
 
 
 
 
壁が、壊されたんだ。
 
事実上の社会主義の崩壊、東西併合。
湧き上がる民衆をニュースで見せられて、溜息をつかれて、ひらひら、でかい子供に手を振られる。
いつもと同じ、表情の読めない、気味の悪い冷たい笑み。顔にかかる息は、相変わらず氷のようにひんやりしてる。
生きてるか死んでいるのかわからない、血の通わない真っ白な手。
握られれば、オレの手も同じように真っ白で、きんと冷えているのが分かる。透ける、お互いの血管。ここに、血は流れているんだろうか。
子どもは、オレと同じ色の白髪に近いプラチナの髪を掻き上げて小さく呟く。
 
あーあ。もう少しでルッツ君も僕の所に来る筈だったのに。
本当、むかつくなぁ。あの合衆国。ヒーロー気取りの偽善者。大方、ルッツ君に泣きつかれたんじゃない?
お兄ちゃんを返して、返してって。もう何年経ってると思ってんだろうね。
もう、君の外見はこんなにも僕と同じになってるのに。
 
口の端を歪めて笑う。大きな冷たい、冬の子供。
イヴァンは冷たい、冷たい唇で、初めてオレの額に口づけを落とす。
何の真似だ、と睨んで、じゃらりと繋がれてる鎖を鳴らす。
壁が崩壊した。東西併合、それは、ルツがオレを取り込んで一つになる事を指している。
二つに分かれていたドイツは、一つになる。
簡単だ、もう、オレは用済みになるという事だ。
 
ようやく、この日が来た。はは。無意識に、顔が笑った。
これで、ルツがこいつの影に怯える事はなくなる。オレの存在価値は、ここで消える。
長かったな。よかった。ルツ。ルツ。流石は、オレの弟だ。ざまぁみろ、オレの弟は、お前になんて負けやしない。
声を上げて笑いたくなるのを必死で押さえて、それでも口が緩むのを抑えきれずに、近くなってるイヴァンの顔に向けて、唾を吐く。
 
「残念だったな、弟を手に入れる事が出来なくて。社会主義の崩壊、時代は動いてる。もうお前の独裁は終了だ」
「そうだね。思ってた以上に彼らの頭が良かった。今回は、残念だけど諦めなくちゃね」
「物わかりがいいじゃねぇか、ヘル・キンダー。これで、オレがここに居る理由は無い。さっさと、殺せ」
「そうだね。可愛いギルベルト。それでね、すごく面白い事を思いついたんだけど」
 
じゃらっ!
首に引っかけられた首輪を力任せに引っ張られて、そのまま冷たい床に押し付けられる。
押しつぶされる頭、モルタルの床は冷え冷えと凍っていて、そのまま頬が凍ってひっつきそうになる。
最後くらい、あんまり痛く無ぇように一思いにやってくれよ。
舌打ちして、馬乗りになってるイヴァンを睨む。
奴は、今まで見た中で一番奇妙な、気色の悪い笑顔を浮かべて、オレの銀髪を毟り取るように引っ掴んだ。
 
「流石に、僕も本宅まで乗り込まれちゃ敵わない。
 彼らの条件は、君の解放。本当に愛されてるね、ギルベルト。他にも提示するカードは沢山あるだろうに」
 
楽しそうに笑いながらオレの首を締め上げる、イヴァン。みるみるうちに、心臓の鼓動が速くなるのを感じる。
ばくばくばくばく、酸素を求めて、口は勝手にぱかりと開く。
霞む目で灰色の瞳を見つめながら、ぼやける思考は高速で一気に回転する。
 
オレの解放?ルツが?なんで?
 
けほり、酸欠になった肺は勝手に収縮。何度か胸を上下させたら、イヴァンは方手でオレの首を締め上げたまま、
引っかけたままだったオレのシャツをびぃっ!と引き裂いた。
はじけ飛んだボタンは凍ったモルタルの床にカン、と落ちる。
ころころと走るボタンはこいつの足元で止まって、そのまま足で踏みつけられた。
 
「ルッツくんの大事な大事な、お兄ちゃん。自分の国の事よりも、プライド捨てて感情でカードを切った、可愛い弟。
 ねぇ、そんな大事なお兄ちゃんが、死ぬほど憎い僕に傷物にされたって知ったら。
 男としての尊厳を踏みにじられたと知ったら、彼はどう思うかな?」
 
笑う、笑う、声を上げずに、静かに笑うイヴァン。
締め上げられる気道に頭はくらくら、白くなる。思考回路が追いつかない。それでもこいつの言ってる言葉を耳は拾って、脳は勝手に理解する。
長い長い、監禁生活。続けられる拷問、それでもこいつはいつでも、子供だった。
虫の羽をもいで反応を見ながら笑うような、残酷ではあったけれども無邪気なそれに、哀れなプライドを傷つけられるような戒めは無かった。
身体は毎日悲鳴を上げていたが、心までずたずたに引き裂かれる事は無かった。
高い自尊心、それが折られる事は、決して、無かった。
 
ぐぐ、と更に気道を締め上げる右手、何かを探るように這いまわる左手。
白くなっていく思考の中で、何が目的で、これからこいつが何をしたいのか、本能が頭の中で警笛を鳴らす。
やめろ、やめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろ、やめろ、やめろ、やめろ!!!!
声は、言葉にはならない。
 
にぃ、と笑う笑みは、長い間一緒に居て、こいつが初めて見せる笑顔。
そこに無邪気さは、もう何処にも感じられない。
瞳を大きく開いて、声にならない声で叫んで、足を大きく開かれたと同時に、意識を飛ばした。
 
 
 
 
「兄さん!!」
 
解放と同時に出迎えてくれたのは、でかく育った、弟だった。
昔の面影は見る由もない、しっかりと筋肉の乗った身体、太い腕、首、彫りの深い顔立ち。
幼い頃はいつでも抱きしめて、撫でてやってた頭はひとつ分くらい上に、少し硬めの金髪を揺らして、オレの首元に顔を埋める。
ぎゅぅ、圧し折られてしまいそうな勢いで抱きしめられる、身体。ぎしぎしっと背骨が鳴って、ぅわ、と思わず声が出る。
 
兄さん、兄さん、兄さん、にいさん、  っ、にい、さん
 
少し、きついんだけど。
首元に埋められた顔から、生ぬるい体温が伝わる。重なった心臓からは、同じように早鐘を打つ、同じリズムの脈拍が聞こえる。
文句を言おうとした口は、そのまま、「ルツ、」という弟の愛称を呼ぶ形に変わった。
じん、と目頭が熱くなって、心臓がきゅうぅっと音を立てる。
ルツ、ルツ。ルツ。ルツ。
 
「・・・泣くなよ、ルツ。ルツ。お前、もう子供じゃないだろ。おい、ルッツ」
「っ、に、兄さん、兄さん、兄さん・・・!」
「ルート」
「・・・会いたかった・・・・・・!」
 
ずいぶんと男前に育った、オレによく似た顔。
正反対の青い目の下には、くっきりと浮かぶ、濃く色素沈着した黒い隈。
男の癖に、大人になったのに、こんなに、いい男になったのに。
ぼろぼろぼろぼろ、涙を零してオレの名前を呼ぶ弟に、情けなくも、オレの涙線も、決壊した。
会いたかった、オレも、会いたかったよ。ルートヴィヒ。
 
「おかえりなさい」
 
軽く喉を鳴らしながら、昔と同じように出迎えの言葉をかけてくれた弟に、オレもしわがれた声で、小さく小さく、呟いた。
 
ただいま、ルッツ。
 
 
 
 
久々に、本当に久々に帰った家は、あんまり変わり映えはしなかった。
オレが出ていった時と全く同じカーテン、ダイニングテーブル、使っていた食器まで。
少しだけ物が増えていたけれど、それはあの時代には無かった電気機器の端末だとか、最新式のシステムバスだとか。
冷蔵庫に入ってるものも、昔のように自然界から取れたものだけではなく、合成着色料のたっぷり入った過酸化脂肪酸、よくわからない色の甘味料、
コカコーラ、冷凍食品、バケツサイズのアイスクリーム。
改めて、壁の向こうはこんなにも自由だったのかと感心すると共に、濁息が出た。
アルフレッド・ジョーンズ。会った事はないが、相当派手で無茶苦茶な奴だとはよく耳にする。
食材の裏に記載されてる栄養成分の表示を見て、うげ、と声を上げたら、ルツは苦笑してキッチンで湯を沸かし始めた。
 
「すごいだろう、貴方が向こうに行ってから、西は何もかもがらりと変わった。
 自由といえば聞こえはいいが、まるで自由でなければ不自由な、そんな風に」
「どんな奴なんだよ?合衆国って」
「まだ若い。勢いだけで突っ走っているような、大きな子供だ。彼の宗主国がよく止めに入ってくれるんだが、なかなか止まらなくてな・・・。
 ただ、俺の嫌がる事は決してしない。少し押し付けがましい時もあるが、話せばわかってくれる。 良い管理者だと、思う」
「ふーん・・・すげぇな、なんだこのカップケーキ。カビ生えてんぞ」
「・・・もともと、そういう色なんだ。貰ったんだが、怖くて食べられない。貴方が帰ってきてから、一緒に食べようと」
 
ルツはそう言って、オレによく似た目元を綻ばせて笑った。
青い瞳。小さいころと変わらないのは、オレが失ってしまった鮮やかな色味だけだ。
けぶる、黄金色の髪の毛、少し日焼けしている、白い肌、深い海のような静かな青色。
よく似た容姿をしているが、瞳の色だけは、違っていた。宝石のような、互いのそれ。
アメジストのようだとよく褒められた、赤紫色の瞳。それすら今は、充血した兎のように真っ赤に染まってしまった。
血の色に似ていると、イヴァンはよく気味悪がって、笑っていた。
 
「疲れているだろう、バスタブに湯を張るから、浸かるといい」
「浸かるぅ?バスに?」
「友人が出来たんだ。兄さんも知っているだろう。昔は黄金の国と言われていた、東洋の、気高く強い国だ」
「ああ、ジャパン?いいよな、あいつ。今度紹介してくれよ」
「喜んで」
 
出されたコーヒーは、やけに濃くて、苦くて、とりあえずは変わってしまった味覚を何とかしなけりゃなと、軽く舌を火傷しながら小さく思った。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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