「じゃぁ、兄さん」
「おぅ。おやすみ、ルツ」
「おやすみ。兄さん」
 
その日は二人で夕飯の買い出しに行って、一緒に飯を作って、酒を飲んで。
体調は大丈夫なのか、と聞かれて、ばかにすんなと笑って頭を叩いて。
正直身体は少し辛いけど、こいつの前で情けない姿を、見せたくなかった。
身体はこんなに変わってしまったけど、中身は昔のオレと全く同じだ。強くて、気高くて、いつもお前の前に居た、あの頃のオレと。
そう、態度で示したくて、痛む身体を叱咤して、ジョッキを合わせて、大声で笑って。
楽しかった。こんなに心の底から笑ったのは、何年ぶりだろう。本当に、涙が出るくらい、楽しかった。
ルツも、オレの身体が変わった事は、何も口にしなかった。
揃いの金色の髪は色素は全部抜け落ちて、抱きあげていた腕はこんなにも細く、貧弱になって。
それでも、弟は変わらずに、オレを兄と呼んで、慕ってくれる。時間は巻き戻らないけど、失ってた時間は取り戻せる。
離れていた分だけまた、一緒に。同じ時間を過ごして。また、家族に戻ろう。ルートヴィヒ。
 
そう言って笑って、男前な顔にキスを落として、久々に入る自室の扉を閉めた。
 
ぽふりとベッドに腰を下ろせば、香る太陽の日の匂い。
シーツの変わっていないベッドメイキングは完璧で、予想してたカビ臭さは微塵もなかった。
いつも、いつも、用意していたんだろうか。メイドを雇わないこの家で、たった一人で、あいつは、毎日。
オレがいつ帰って来ても、いいように。
明日、明後日、もしかしたら、今日。帰ってくるかもしれないと、願いながら。
すん、と明るい日差しの匂いのするピローに顔を埋めて、瞳を閉じる。
あいつと、もう一度家族に戻るんだ。兄弟に。決して叶わないと思ってた夢が、叶ったんだ。
お互いが離れて居た期間、辛い記憶、こんなものは過去の産物だ。
あいつとオレの間には、何一つ必要ない。関係ない。持ちこむ物なんて、何一つ無い。
 
ぎし、ベッドを軋ませて、鼻から息を吐きながら、身体を起こす。
着ているシャツに手を伸ばす。第一ボタンまで、きっちり締めた、ドイツ製の白いシャツ。
手を抜いて、締めてるベルトを引き抜いて、サイドボードに手をかける。
かたり。買い物に行った時にあいつの目を盗んでレジに持ち込んだものが、引きだしの奥に光って見えた。
 
 
「兄さん、すまない。そちらの部屋に俺の荷物が・・・」
 
 
がちゃり。
 
「ッ!!!」
 
突然の来訪に、オレはびくぅっと大げさに身体を縮めて、飛びあがった。
ちょうど、引き出しの物を取り出そうと手を伸ばした、その時。ベッドサイドのボードをばしぃっと閉めて、ベッドに放り投げたシャツを引っ掴んで。
ノックもせずに突然扉を開けた弟に、ぎろっと睨んで、勝手に入んな!と怒鳴りつける。
向けていた背中を、不自然なくらいにばばっと隠して、前に向き直って、牙を剥いて。
 
「・・・兄さん?すまない、そんなに怒るとは」
「・・・いーよ、何だよ。オレが取ってやるから、お前は部屋出てろ」
「いや・・・自分で探す。入ってもいいか」
「いいって!入んなよ!」
 
・・・・・・・・・・・・?
 
邪しげに、青い瞳が細くなる。どくどく、心臓は反比例してうるさく鳴り出す。少しだけ不自然かもしれない。
血の繋がった兄弟の着替えを見られただけでこうもかっかと怒鳴られて、思春期のガキみたいに、部屋に入られるのを嫌がって。
否、それよりも、きっと今のオレの、格好だ。
突然後ろを庇うように壁に背中をひっつけて、入ってくるなと犬歯を剥き出しにして。
前を隠すように、持っていた夜着で首元を隠す。顔は、恐らく青ざめてる。無意識に。心拍数が早まるのは、止められない。
 
兄さん?
弟は心配そうに、金色の眉を潜めて、白い絨毯に一歩、シューズのまま踏み出す。オレに、よく似た顔。
口もとなんて、本当にそっくりだ。薄くて、少し冷たそうな印象を持たせる、彩度の低い色素の唇。
唇は小さくオレの名前を呼ぶ形に動いて、耳触りのいい声は狭い部屋にりんと響いた。
 
「ギルベルト」
 
ギルベルト。
ここ数年間、ある男にしか呼ばれなかった、自分の名前。
ぞわっと背中に虫が走って、ベッドにセットされたままのピローを、ばしっとルツに投げつけた。
 
「入ってくんなって、言ってんだろ!!」
「・・・なんだ、どうしたんだ?ギルベルト、顔色が悪い。背中に、何か」
「うるせぇ、寄んな、こっち来んな!!」
「兄さん」
 
背中を壁にぴたりとひっつかせながら、時折声を裏返しながら、オレは叫ぶ。
裏返る声は、もう声帯がおかしくなってるからだ。意識をしなければ簡単に狂った発音しか出来なくなる声帯、こんな声も、ばれたくなかった。
兄さん、いよいよもって、不審さを露わにした弟は、でかい足で床を蹴って、まっすぐにオレに向かってくる。
ぅわ、と身体が縮んだ。
でかい身体。でかい、男の身体。掴まれる自分の細い手首、近くなる顔に、思わず、ヒッ、と喉が鳴った。
 
「・・・何を、怖がって・・・」
 
 
手首を掴まれたと同時に、左手に持っていた夜着がはらりと床に落ちて。
弟は、そのままオレの手首を掴んだまま、青い目を大きくして、固まった。
 
 
あばらの浮いた、白い、痩せた身体。貧弱に虚弱に、哀れさを誘う、情けない身体。
背中には、無数の鞭の跡、醜く引き攣るケロイド、色素沈着した火傷の跡。
前面には、同じように打たれた打撲の跡、焼き鏝を押された、冬の国の国旗のマーク。
真っ赤に焼いた鏝で押されたそれは、タトゥのように綺麗では無く、皮膚を焼き、周りの組織を巻き込んで醜く引き攣った瘢痕になっていた。
監禁されてから間もなく押された、所有物の証。
罪人でもあるまいに、真っ赤に焼けた鉄を見た時には、流石に腰が引けて、腹の柔らかい部分に押し付けられた時は絶叫した。
 
「・・・・・ッ・・・!!!」
 
ルツが、息を飲む音が聞こえる。
畜生、だから、入ってくんなって。
かちかち、奥歯が鳴るのを自覚しながら、は、離せよ、と震える声で頭一つでっかい弟に怒鳴る。
晒されてる、自分の上半身。醜い拷問の跡よりも、屈辱的なものが、胸の飾りできらりと震えて、光る。
 
無理やり埋め込まれた、銀色に光る、ニップルピアス。
きんと空気が凍るあの国では、埋められたピアスもかちりと凍り、何度も凍傷になっては、屈辱的な思いをして、泣きたくなった。
 
 
「・・・何だ、なんなんだ、これは、兄さん」
 
 
ルツの声が、震える。掴まれた腕に、力が籠る。痛い。ぎりぎり締め付けられる力加減は、冬の国での拷問を連想させる。
痛い、と声を上げれば、同じように、同じ音量で、ルツも「何なんだ、これは!兄さん!!」そう、怒鳴った。
 
「なんで、なんで、何故、こんな、兄さん、」
「・・・しっかた、ねーだろ、ああいう奴なんだよ」
「仕方ないで済む問題か!!」
「じゃぁどーしろって言うんだよ!!」
 
ヒートアップしていく弟に、こちらも負けじと、声のトーンが上がっていく。
感情に任せれば、簡単に声は裏返って、おかしな発音になって、聞こえない。
流石に、同じ血を分けた兄弟。怒鳴り合うタイミングも同じ、苛立つタイミングも全く同じだ。
弟は大げさに舌打ちして、オレの両手を片手で掴んで壁に押し付けると、右手でオレの乳首に突き刺さってるニップルピアスを外しにかかる。
埋め込まれてハンダ付された太いそれは、方手でやすやすと取れるようなモノではない。
そんなの、オレだって外そうと、乳首をもいででも外してやろうと、躍起になった。
奥深くまで埋め込まれた銀色は、もはやピアスと呼べるものではないかもしれない。
ぎゅぅぅっと引っ張られるそれに、オレはやめろ!と裏返った声で喚く。
かちかち、歯の根の合わない顎、再度チッと舌打ちして眉を顰める弟に、止めてくれと懇願する。
 
「・・・クソ、外れない」
「外れねぇんだよ!そのうち、医者呼んで、切断してもらうから・・・!」
「冗談じゃない、こんな身体、他の奴に見せてたまるか」
「・・・悪かったな、他の奴らに見せるのもイヤになるくらい、恥ずかしい身体になっちまってよ!」
「誰もそんな事、言っていないだろう!」
 
唾を飛ばして、怒鳴るルツ。
ぎゅぅっと掴まれた両手は、ぎちぎち、ぎちぎち、間接を鳴らして音を立てる。
痛ぇ、砕ける、骨が。
身体はあいつと同じくらいでかいけど、力はまるで段違いだ。幼いころのこいつとは違う、でかくなった弟に、どう言えば解放してもらるのか、頭を回す。
まわした所で、答えは出ない。こいつは、今、死ぬほど苛立ってる。怒ってる。
誰に?イヴァンに?自分に?黙ってされるがままにこんな身体を持って帰ってきたオレに?
 
「・・・・・・・・・・・・許さない」
「ルツ、いい、やめろ」
「無理だ。出来ない」
「いい、やめろ、折角、ようやくカタがついたんだ、また、こじれさせる必要なんてない」
「兄さんが、こんな身体になって、されて、黙っていろとでも」
「オレはいいんだよ!」
「俺が嫌なんだ!!」
 
静かに、青く光っている瞳は、色が変わって、少し赤味を帯びている。
感情で変わる瞳の色は、オレの身体とおんなじだ。怒りで変わる、瞳の色。怒ってる。すごく。
こいつとオレは、よく似てる。外見も、感情の起伏も、考え方も、オレと同じ、容赦の無い残忍な一面も。
ルツ、何とか、宣戦布告を突き付けるような真似だけはしてもらいたくなくて、オレは両手を拘束された状態で声を出す。
 
「オレはいいんだ、大丈夫だ。こんな事、何てことはない。お前がオレの状態にならなくて、良かった」
「、そういう問題じゃ・・・!」
「いいから聞けよ!」
 
唾を飛ばして、ひっくり返った声で怒鳴る。声帯が切れそうだ。
げほ、と少しだけむせたら、ルツは少しだけ眉間の険を取って、押し黙る。
いい子だ、ルツ。いいか、よく聞けよ。
オレは、お前が一番大事なんだ。オレの身体なんて、どうだっていい。共和国ドイツ、お前は、オレの夢だった。
焦がれて、焦がれて、夢にまで何度も何度も見た、お前は、オレの理想なんだ。
なるべく、優しい声でゆっくりと声を出す。
子供に諭しているように、昔のように、ゆっくりと。
荒い呼吸で胸を収縮させてるルツを、なんとか、落ち着かせるように、落ち着いてもらえるように。
 
「本当なら、オレは死んでも良かったんだ。こうして、生きてこの国の土を踏めただけでも良かったんだ。
 お前が、連れ戻してくれたんだろ?有難う、嬉しいよ、ルートヴィヒ」
「・・・俺は、兄さんを解放してもらえる為だけに、その為だけに、」
「だったら、いいじゃねぇか。オレは解放された。お前が、解放してくれたんだ。もういい。それだけで、もういいよ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・」
 
ルツの、両手を拘束する力がゆっくり、抜けていく。
じんわり血液の戻る両手首。じん、と痺れていたのが分かって、笑って、するりと手から抜けると、そのまま太い首に絡ませた。
有難う。
ぎゅっと弟の首を抱いて、もう一度耳元で礼を言う。
 
本当は、怒るつもりでいた。
どういういきさつでこうなったのかは分からないが、イヴァンが言っていたように、オレの解放と引き換えに、何か大事なカードを切ったのは間違いない。
こいつの上司に、何といって説き伏せたのか。合衆国にだって、相当な無理を言っただろう。
既に死んだも同然の解体国、プロイセン。
何の役にも立たない、足手まといのオレを引き取るなんてのは、新しく国家を築いていかなければならないこいつにとって、何の意味もなさない。
それなのに。
目元に浮いた、青黒い隈。
幼い頃から聞きわけがよくて、我がまま一つ言わないこいつには、感情が無いのかと思った事もある。
解放と同時に抱きしめられた、強い腕。でかい身体。
大の男が、兄弟の為に、ぼろぼろぼろぼろ、涙を流して。
今のオレに出来る事といったら、素直に開放を喜び、感謝し、こいつを労う事くらいだ。
解放よりも、たった一人の弟が、オレの為に長い間走り回ってくれた事が何よりも嬉しい。オレは、もう、これで十分だ。
 
な、と笑って、まだ顰められてる眉間に、伸びあがってキスをする。
不機嫌そうに黙りこむ、尖らせた唇、決してこちらを見ない、不満げな青い瞳。
拗ねた子どもの様な、昔のままの表情に、思わず小さく、笑いが出る。
 
「過去の事は、もういいだろ。嫌な事を、思い出させないでくれよ。これからはずっと一緒なんだからよ」
「・・・・兄さん、俺は・・・」
「愛してるよ、ルートヴィヒ。この話はこれで終わりだ。誇り高きゲルマンの王、連邦共和国ドイツ。
 お前は旧帝政ロシアの悪行さえも広い心で許してやれる。そうだろ?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「ルツ」
「・・・・・・・・・・分かった」
「いい子だ」
 
ケセ、と笑って、わしゃわしゃわしゃわしゃ、硬い金髪を掻き混ぜる。
まだ納得のいってなさそうな、子供染みた顔。んな顔すんな!と両手でパチン!と頬を叩いて、むちゅっと額にキスをする。
今晩は一緒に寝てやろうか?可愛いルッツ。
そう息のかかる距離で笑ってやったら、「馬鹿にしないでくれ」、と赤い顔して同じようにキスを返された。
 
 
 
 
「・・・じゃぁ、兄さん」
「今度こそ、ちゃんと寝ろよ」
「・・・兄さん、俺は」
「ぁん?何だ」
「・・・・・・・愛してる、兄さん」
「オレも、愛してるよ。ルッツ」
 
お互い頬にキスをして、じゃぁな、と笑って、扉を閉じる。
ぱたん、閉じて、扉に耳をひっつけて、ぺたぺたという足音の後に聞こえた扉の閉じる音を聞いてから、はぁっと息をして、鍵をまわした。
しん、と冷える一人の部屋。どく、どく、上がっていく心拍数。大丈夫。ちゃんとオレの居場所はここにある。
ここに、あいつは居ない。あの冷たい冷たい氷の塊のような子どもは、ここには居ない。
 
今度こそ、脱ぎかけの寝着を一気に脱いで、ばさりとその辺にほっぽり投げて、素っ裸のままベッドに転がる。
ベッドサイドの戸棚に仕舞っておいた、あいつにバレないように買ってきた、鈍く光る、いかついペンチとニッパー。
がちゃがちゃ、音を立てながら、脂汗の滲む掌を自覚しながらシーツを噛む。
閉じた状態でもかちかち鳴る奥歯、かたかた、定めの決まらない左手を引っ叩いて、それでも止まらない手を右手で押さえる。
鼻で深呼吸して、瞳を閉じて。同じ引出しに入っていたライターを取り出して、かちっと音を立てて、火を点ける。
赤い炎。あいつの家では、見る事は無かった。ニッパーを近づけて色が変わるまでじりじり、じりじり、ゆっくり炙る。
エタノールはどうしても見つからなかった。コレでいい。仕方無い。大丈夫だ。大丈夫だ。
一息、大きく息を吸って、吐いて。
むくりと起き上がって、胡坐を掻いて、もう一度大きく、息を吸う。
 
 
乳首に嵌められた、ロシアの紋章の入った、ニップルピアス。
銀色の、埋め込まれたソレと同じデザインのピアスは、身体の中心に、もう一つ。
 
 
まともな医療道具も無い癖に無理やり埋め込まれたそれは、周りの組織を巻き込んで軽く癒着してる。
乳首に嵌ってるそれも同じく。案外奥まで埋まってる金属の感触を確かめて、舌打ちする。
 
外せるだろうか。否、外すんだ、外さなければ。
ルツのオレへの執着心は、想像以上だ。幼い頃から何となくは思っていたが、力をつけたあいつを暴走させる訳には、絶対にいかない。
大事な弟が、オレの為に切ったカードだ。こんな事で、こんなくだらない事で、全部を大無しにされてたまるか。
性器に深く埋め込まれた、冬の国から持ってきたただ一つの屈辱的な土産物。
・・・こんなのを見られた日には、もう、間違いなくあいつは止まらない。
見られる訳にはいかない。見られる前に、何がなんでも、外すんだ。
 
 
再度ライターでニッパーを炙って、眉を顰めて、小さく、小さく舌打ちして。
白いシーツを奥歯で噛んで、オレは震える左手を叱咤して、自分の性器を握って、ニッパーをそれに近づけた。