「ルーツールーツー。ルツ、ルツルッツ。オレ様暇だぞ、遊んでくれ」
 
よく晴れたある日の日曜日。
書斎でいつもの様に気難しい顔をして唸ってる身体の大きな弟に、
オレはとぅっとタックルして、奴の持っていたインクをぶちまけた。
 
「・・・・・・・・・・・・・・!!!!」
「あ。ワリ」
 
丁度万年筆のインクを入れなおそうとしていた弟は、書類と白いシャツにべとーと伸びた
真っ黒なインクに、声もなく顔を真っ青にする。
そういえばこのシャツ、誰かに買ってもらったやつだって言ってたか。
誕生日だから貰った、と少しだけ嬉しそうに袖を通してたこいつの顔を見て、思い出した。
あー。これもうだめかもなぁっていうか、だめだな、こりゃ。一応シミ抜きしてやるか。
顔中に怒りマークを並べてぐるっと振り向く弟にへらっと笑ってやったら、次の瞬間
ルツは予想通りの大声で、キレた。
 
「突然飛びつく奴があるか!どうしてくれるんだ!」
「お。んなに怒鳴んなよ、シミ抜きしてやるから。ほら、脱げ脱げ」
「シャツじゃない、コレだ、この書類!データバックアップしていないんだぞ、くそ・・・!」
 
右手に握り締めてるのは、真っ黒なインクを吸った、真っ黒な紙。真っ黒になった紙。
しとしと垂れるインクの瓶を直して、ルツは絶望的な溜息をついた。
なんだ、シャツじゃねぇのかよ。花の日曜日までお仕事とは随分この弟は生真面目だ。
オレに似たのかな、偉いぞルツ。
偉いついでに、暇を持て余してるオレと遊んでくれればもっと偉い。
 
「家にまで仕事持ち込んでんじゃねーですよ、ルツ。仕事は職場でやるもの、家は安らぐためのもの」
「そうだな、今痛感した。休日出勤してオフィスでやってれば、こんな事にはならなかった」
「そうだろ、そうだろ!よし、じゃぁ遊べ」
「オフィスに行って来る」
 
シャツに大きな黒いシミをつけたまま、がたりと椅子を立つルツに、オレはちょい待て!と
タックルをかまして、身体全部で弟を止める。
がっちりむきむきマンのこの弟には、今のオレの力じゃ止める事も出来やしない。
がっしと身体を抑えて、細くなった足で足払いをかけると、でかい身体は結構あっさりとふかふかした絨毯に転倒した。
 
ゴン!と顔から床にキスしたルツは、一瞬固まった後に、それはそれは怒りに満ちた、それこそ鬼のような
顔でこちらをぎろりと睨んで、お得意の大きな発声で、怒鳴った。
 
「何をするんだ、貴方って人は!!」
「すっげぇ、いいコケっぷりだな!」
「全く、ふざけるのもいい加減に・・・!」
「遊べよむきむき!オレ様は暇なんだ。もう掃除も洗濯も洗い物も終わったんだぜ、偉すぎるだろ」
 
身体を起こそうとするルツの上に馬乗りになって、遊べ遊べと繰り返す。
畜生、本当暇なんだぜ。昨日からずっと書斎に篭ってたこいつにちょっかいも出さず、独り遊び。
早く出てこねぇかなと思いながら家を掃除してたら、もう磨く所がない位にぴかぴかになってしまった。
本田に借りてたゲームは皆クリアしちまったし、作りかけだった犬小屋も完成した。
あとは、さんさんと降り注ぐ太陽の下でなびいてる洗濯物を取り込むだけだ。乾いたら。
我ながら、実にいい主婦っぷり。畜生、変なスキルばっか上がりやがって。
普段忙しいのは分かっちゃいるが、オレだってこんなに尽くしてるんだ。
休みの日くらい家族サービスしてもいいんじゃないか、このバカ弟!
 
うつ伏せに倒れてるルツの上にぐてーと転がって、遊べよ畜生とごろごろする。
やけに広い背中に頭をぐりぐりしながら唸ったら、一旦息を吸って、大きく吐いた肺の振動が伝わった。
 
 
「あのな・・・。仕事なんだ、兄さん」
「プライベートにまで持ち込むような効率悪い仕事すんな」
「貴方と一緒に居る為にも、周りから何か言われるような事はしたくないんだ。わかってくれ」
 
 
ルツはそう言ってオレを絨毯の上にころりと落とすと、ゆっくりとでかい身体を起こした。
昔は、結構昔はオレの腰くらいまでしかなかったのに。子供ってのは、全くいつの間に成長しているんだろう。
オレと一緒に居る為。昔は、その台詞はオレのものだったのに。
離れ離れにならないように、あいつの道標になれるように。あいつが、いつも迷わないように。
もうその役目も終わったオレって、そういえばあいつの何なんだろう。
 
のそのそと書斎を出て行く奴の後ろ姿を見て、オレは小さくちぇーと唇を尖らせた。
 
 
 
 
「それじゃ、行ってくる。兄さん」
「おい、お前マジで行くのかよ?」
「今日中に仕上げなくてはならないんだ。すぐに戻る」
 
シャツを換え、ジャケットを羽織り、トレンチに手を通しながら声を掛けるルツに、
オレは待て待てと言いながら後を追いかけた。
対するオレは、白地にしましまのくまちゃんエプロン。
こいつが倒れた所為で(倒したのはオレなんだが)絨毯に色移りしたインクのシミ抜きをしてたんだ。悪ぃか。
靴べらを使ってローファーに足を入れるルツをききぃっと止めると、エプロンを脱いでハンガーに掛ける。
隣にあった、一回り小さなブラックのトレンチを外してから、何だ何だと不審そうにこちらを見るルツに、
八重歯を見せて、にっと笑った。
 
「オレ様も行く」
 
その後のルツの顔が、イヤそうに、心底イヤーそうに歪んだのは、言うまでも無い。
 
 
 
 
「全く・・・・どうして貴方まで来るんだ。オフィスに行くだけだと言ってるだろう」
「責任感じてんだよ、お兄様は。いいだろ、誰も居ないだろ」
「誰もいないがな・・・・」
 
ばたむ、とタクシーの扉を閉めて行き先を告げると、ルツはいつものように深い溜息をつく。
溜息つくと妖精が死ぬぞ逃げるぞと、大英帝国に言われた事をそのままなぞって言ったら、
「カークランドにも同じ事を言われた」と返された。
あいつ、色んな奴らに言ってんだな。さすが空想の世界の住人だ。
 
「いーだろ、じゃぁよ。暇なんだよオレ様は」
「それが本音か」
「可愛い弟の仕事場を覗いてみたいと思う、兄心だ」
 
ケセセセとふざけて笑ったら、ルツは邪魔はするなよ、とオレの髪の毛を引っ張る。
お互いに似た、硬くてくせの無い髪。色は、オレのはだいぶ薄くなってしまったけど。
何を考えているのか、髪の毛を見ながらしばし止まったルツに、「邪魔なんてするか」と
わしゃわしゃオールバックの髪をかき混ぜたら、奴は本日三回目の沸点を越えた。
 
 
 
「そういえば、お前の職場なんて行くの初めてだな」
「いいか、絶対に、絶対にその辺りの物に触るなよ。指紋センサーの物もあるから、手袋をしてくれ」
「へいへい」
「始末書物だ、こんな事見つかったら」
 
ルツはぶつくさ言いながら、ぴぴぴと電子ロックを外して入り口を開ける。
かしゅんっと音を立てて開いたガラスの扉は指紋一つついてなくて、流石はこの弟の職場だと素直に感心した。
そんなに広くはない、こじんまりとした、真っ白なオフィス。
どれくらいの人数がいるんだと聞いたら、普段は3人くらいしか駐在していないという返事が帰ってきた。
ふぅん。いつもこいつは会議だパーティだ戦場だって、あちこち飛び回ってる忙しい身の上だし。
上司の付き添いから個人的な付き合いまで、最近は特に忙しそうで家にいる時間は寝ているばかりだ。
おかげでオレは暇な訳だが。そんなに忙しいならもっと雇えと言ってやったら、上司に言ってくれと返された。
いつの時代も、上司ってのはオレらに大層、優しくない。
国の象徴であるオレらはもっと重宝されてもいいと思うんだけどなぁ。
そう、ルツに言おうとして口を開きかけて、止めた。
国の象徴、上司。今のオレにはどちらもそれは関係ない。
今のオレってのは、何の象徴の為に存在してるんだろう。オレの存在意義って、何なんだろう。
頭によぎった、ちょっとした疑問。オレが考えてるって事はこいつも考えてるに違いないから。
今以上考え事を増やさせるような事は止めようと思って、オレはでっかい背中の後ろをぺたぺた歩いた。
 
「・・・・やはり、バックアップ取って無かったか・・・・・」
 
ルツの席なのだろう、やけに整頓されたウッドチェアに座って端末を開いた弟は、
モニタを見るなり絶望的な溜息をついた。
はぁぁぁぁぁ、でっかい背中ががっくり丸まる。
第一ボタンを外しながらかちかちマウスを弄る弟の背中にのしっと乗っかって、
同じようにモニタを見たら、「国家機密を覗くな」とぺんっと顔を叩かれた。
 
「いいじゃねぇかよ。オレの前で毎晩仕事してるお前が今更なんだ」
「漏洩されたら困る」
「オレがお前の困る事すると思うか、バカルツ」
 
そう言ってノート型の端末を閉じようとする弟の手を払って、モニタに踊る字を追う。
几帳面な弟らしい、行間とフォントの整った細かい資料。
見やすいデータのタイトルは「東西ドイツ統合」、そこまで目で追った時にでかい手が
ぱたりと端末を閉じた。
 
 
「見るなと言ってるだろう」
 
・・・・・・・・・なんでそんな、泣きそうな顔してんだよ。ルツ。
 
 
邪魔をするならロビーで待っててくれと言われて、へいへいと大人しく隣のデスクに腰掛ける。
同僚は、女なんだろうか。
ピンク色のマウスパッドに肘をつけて弟の顔を見ながら小さく溜息をつく。
あまり度の入っていない、銀縁の眼鏡。
書類を見るときには使ってない眼鏡は、こういう風にモニタを見るときだけつけるんだろうか。
知らなかった。
こんな風に、キーボードを叩く指も、自分の国の為に自ら動く背中も。
昔は、全部全部それはオレの仕事で、こいつは後ろで本でも読んでるか、勉強でもしてるのが常だったのに。
ウィィィと鳴ってるコンパクトな端末はアメリカ製。手元にはコカ・コーラ。
昔の社会主義の面影はこいつのばかみたいな真面目さだけだ。
オレが居ない間に、世界ってのは恐ろしく早く進んでいるのだと。時々、思う。少しだけ寂しくなる。
弟の成長に、自分がついて行けない事に。
 
オレって、いつまでこの姿でいられるんだろうなぁ。
 
国が解体されてもまだ姿を保ってられるのは、もしや東ドイツとして名前が変わったからなのだろうかと思っていたけど、
壁が無くなってからはそれすら呼ばれる名前はもう無いし。
不思議だ。ルツに聞いた事はないけども。
聞くつもりも、無いけど。
 
 
ぼけっとうんうん唸る弟を見ていたら、少し赤い顔に「集中できん」と怒鳴られた。
 
 
「何唸ってんだよ、データ集めるだけだろ」
「データは集め終わってる。計算式がまどろっこしくて、貴方が側に居ると気が散るんだ。出て行ってくれないか」
「あんだよ、その言い方。ちょっと見せてみろ」
「ちょ、おい、兄さん」
 
がらがら、車輪のついてる椅子に座りながら隣に寄って、でっかい身体を押しのけてモニターを寄せる。
おい、と怒鳴る弟の形のいい額にでこぴんして光るモニタの表を追うと、
やけにしちめんどくさい計算式がセルに設定してあった。
・・・・なんだこれ。何でこんなややこしい事してんだ。そう言ってかちかちキーボードを叩いてやれば、
弟はしゅぅぅと煙の出る額を押さえて何を、と怒鳴る。
 
「おい、兄さん!勝手にデータを弄るな」
「ここの集計取るだけだろ?何でこんな場所からデータ拾ってんだよ、無駄だろ」
「む。無駄なのか?よく分からないからずっとそのやり方だったんだが・・・」
「無駄だよ、バカルツ。何で10年前からゼロの所にまで関数入れてんだ」
 
これも、これも、これも邪魔。変換も変。
かちゃかちゃとしばらくキーボードとマウスを鳴らしてやれば、弟が唸っていた真っ黒になった資料は、
ものの10分程で出来上がった。
がーとプリントアウトしてやれば、ルツは素直にふむと唸って、眼鏡を外す。
「何でこんな事知ってるんだ」という問いには、「引きこもりを舐めんな」と皮肉っぽく笑ってやって。
相変わらず、生真面目できっちりしっかりの弟だけど、要領の悪さは昔と全く変わらない。
どうしたらもっと楽になるのかとか、便利になるのかとか、少しは考えろよ。
国として歩んでいくなら、いつの時代も真面目さだけじゃ勤まらねぇぞ。
他のデータも見ながら、随分無駄な事してんなぁと呆れて言えば、ルツは整った顔を破顔させて呟いた。
 
「やはり、兄さんが居ないと駄目だな。俺は」
 
そう言って、有難うと頭を下げる。
兄弟で礼なんていうんじゃねぇよ、ばーか。身体年齢の若い弟は、笑った顔は昔と全く同じだ。
プリントアウトした資料をクリアケースに入れて、恐れ入ったか、とオレも笑う。
そうだよ、オレが居ないと、お前は駄目なんだ。
お前がだめだめだから、きっとオレはまだここにいるんだ。
そう言って、座っていた椅子をデスクに戻して。
無意識に、色素の薄くなった自分の腕を軽く撫でて。以前よりも、確実に、薄くなってる色素を見て。
 
お前が一人前になるまで、きっとオレは一緒にいられる。心残りがなくなるまでは、きっと、ずっと。
 
帰ろーぜ、我が家に。
そう言ってルツのでかい手を取って、以前よりも細くなったオレの指は、お互い見ないフリをして。
少し切なそうに笑うルツにキスをしてから、オレ達は二人で手を繋いで、誰も居ないオフィスを後にした。