ごおお、とエンジン音を響かせて、飛行機はゆっくりと着陸する。
アテンションプリーズ。
ブリティッシュ・エアウェイズの制服を着たCAの声と共に、シートベルト着脱のマークがぴかぴか光った。
あー。
結構、長かった。
うーん、と飛行機を降りる列に並びながら、俺は大きく伸びをして、靴のかかとをとんとんとして、履き直す。
時差五時間。現地時間を確認して、彼から貰ったタグ・ホイヤーの時計を合わせた。
時刻は朝九時……思ったよりも早く着いてしまった。
ユナイテッド・キングダム、ヒースロー空港、天気は曇り。爽やかな朝とは言い難いけど、雨が降って無いだけ良いとする。
大きなバックパックを取り出して、よいしょと背負って、飛行機の窓から見えるイギリスの空に、によっと笑った。
来たぞ、アーサー。
軽く曇った窓をきゅっと擦って、俺は外していた眼鏡をかちりと嵌めた。
ふぁ、と小さく欠伸をして、俺は荷物を持って飛行機を降りる。
ランディングカード書かないと……そう思ってバックパックからボールペンだけ出して、お尻のポケットに突っ込んでおいた。
予想通りえらく並んでいるボーダー、入国審査の列に並びながら、さらさらとシートに名前を書く。
アルフレッド・F・ジョーンズ。ばれたら、面倒くさそうだなぁ……俺の上司にも、彼の上司にも……。
泊まる場所は、アーサーが住んでるロンドンの家。そういえば、住所、バックパックの中だ。
面倒だなと思いながらも、もう一度バックパックを前に持ってきて、仕事とプライベート混同のくたびれた手帳を取り出す。
イギリス首都ロンドン、パディントン。郊外にも何件か家を持つ彼だけど、交通の便がいいからと、最近この大きな駅の近くにアパートを借りたらしい。
えーと……出身、パスポートナンバー、到着便ナンバー、サイン。
眼鏡を直しながらランディングカード……入国カードを書いてるうちに、いつの間にか列は前の方に行っていて、
すぐに「32」と番号が呼ばれて、それでUK borderのラインをくぐった。
「ハイ」
「ハロー。滞在期間は?」
「一週間」
「帰りのチケット」
「持ってるぞ。はい」
「今回の目的は?」
「遠距離恋愛中の恋人に会いに」
一週間後のチケットを出しながら笑ったら、イギリス人の入国審査官は、「感心な恋人ね」と言って笑って通してくれた。
荷物はバックパックひとつだから、バゲージレーンを通り過ぎて、そのまま市内に出るエクスプレスの乗り場に向かう。
ええと、パディントン……すごいな、特急だと15分で行けるのか。でもそこまで急ぎのものでもないし、ゆっくりと鈍行で行こう。
ロンドンの交通事情って言うのは、パリの地下鉄の歴史に負けず劣らず、メトロが縦横無尽に走ってる。
縦横無尽すぎて、俺達ツーリストにとっては、逆に分かりづらくもあると思うんだけど……。
ホームで貰った路線図を眺めながら、俺はヒースロー・コネクトの中で眉を寄せる。
なんてわかりにくい……慣れれば便利なんだろうけど、慣れるまでが大変そうだ。
あとでいいやと路線図を仕舞って、取り敢えず、彼の家に向かおうともう一度住所を確認するために、手帳を出して。
今日休み取ったって言ってたから、家に居るかな。
ふふ、と一人で笑ってたら、ゴォン、と音がした後に…………電車が止まった。
『ハロー……』
「ハロー、アーサー!ちょっと、君の所のメトロってばどうなってんだい、ちっとも目的地に着かないんだけど!」
『おう、お疲れ。んな訳あるか、バカ。違う電車乗ってんだろ』
「ちゃんと乗ってるよ……ただ、よく止まるし、さっきから全然電車が来ないんだよ。ねぇ、迎えに来てくれよ」
『行ってやりたいんだけど、急に仕事が入って……合い鍵、渡してあるよな?先に入ってていいから』
「だから、電車が止まって」
『悪ぃアルフレッド、呼ばれた。地下鉄死んでるなら、地上出てブラックキャブでも捕まえろよ。じゃあな、後で』
I LoveYou、そのまま、恋人との電話はぴぴっと切れた。
ミートゥ、アーサー……。プープーと鳴る電話に向かって、俺は動かない地下鉄の天井を見上げて、息を吐いた。
はー。イギリス人のごった返す駅の中で、俺はバックパックの持ち手を握りしめて、小さく肩を落とす。
話には聞いてたけど、こんなによく止まるものなんて……周りを見ても、特に動揺することなくそれぞれ思い思いに過ごしてる。
振り返えとか無いの?俺は観光だからいいけど、今の時間なんて仕事の人も居るだろう。
恋人を見て、イギリス人ていうのは皆神経質で怒りっぽいとばかり思ってたけど、実際はそうでもないらしい。
食べる?と手渡されたカラフルな包みのキャンディを口に入れて、サンクスとお礼を言って、ちょっとだけイギリス人の見方を変えた。
外に出たら、空は思ったよりも晴れていた。
彼の言う通り、アテの無いメトロの復活を待つよりも、地上に出てタクシーでも捕まえた方がきっと早い。
重たいバックパックを背負い直して、ゆっくりと階段を上がって行く。
眩しい光と共に、ぴうっと冷たい風が頬を撫でた。
気温は12度……NYよりも少し寒い。気温の事なんて頭に入れてなかった俺は、素肌にロンT一枚の格好で、
くしっ、と小さくくしゃみをする。
何処だろう、ここ。
ロンドン特有の、すこし埃っぽい匂いに、ぴん、とした空気。
目の前を、ロンドン名物の赤い二階建てバスが沢山の人を乗せて走って行く。
メトロがストップしているからか、タクシーにも長い列が出来ていて、俺はコーヒーでも飲もうと、
近くにあるスターバックスの中に入ってフラペチーノを頼んだ。
久々に来たけど、ロンドンもだいぶ、変わって来てる。
昔みたいなお堅いイメージは確かに今もあるけれど、マックだったりKFCだったり、
今飲んでるスタバのコーヒーだったりと、最近は結構ライトな感じだ。
アーサーもあれだけ、「コーヒーなんて飲めるか」とぎゃんぎゃん騒いでいたけれど、あちこちから香ってくるコーヒーの香りは、
国民に受け入れて貰っている証拠だろう。
彼も、意地を張らずに飲んでみたらいいのに。
ふふ、と笑って、俺は履きなれたナイキのスニーカーで目の粗いブロックをぽてぽて歩く。
コンクリート造りの俺の家と違って、昔からの石畳で出来た道は、ガタガタして少し歩きづらい。
欧州全体に言えることだけど、どうして新しくて便利なものにしないんだろう。
歴史の無い俺には、分からない事なのかもしれないけれど、やっぱり不便だといつも思う。
甘いチョコレートフラペチーノをストローで飲みながら歩いていたら、いつの間にか大きな公園に出ていた。
バックパックのポケットに入ってる地図を後ろ手で出して、片手で広げる。
恐らく、セント・ジェームズ・パークだ。なんだ、パディントンて、ここからそんなに遠く無いじゃないか。
ロンドンは広いけど、街全体がきゅっと密集してる感じがする。
確か公園の端に行けばバッキンガム宮殿がある筈だから、折角だし見て行こうと、
俺はきゅっとスニーカーを鳴らして、地図を仕舞って歩きだした。
時刻は11時30分。
パァッ、と高いファンファーレの音が聞こえて、あっと思って、俺は正門に向かって走り出す。
バッキンガム宮殿の、衛兵交代だ。
正門の前に、すごい人だかりが出来ている。
折角だし観て行こうと、フラペチーノの容器を近くのゴミ捨てに入れて、走りながら携帯電話のカメラのスイッチをセットした。
門の前にスペースは無さそうだから、後ろのエリザベス女王即位の際に造られたと言う、金色の大きな天使像の前に移動する。
先に陣取っている親子連れに「エクスキューズ」と言って後ろに立ったら、彼らは「どうぞ」と笑って、通してくれた。
広い中庭に、高く高く響くファンファーレ。
大きな馬に乗った指揮官が先頭に立ち、その後に、赤い服を着た衛兵たちが管楽器を演奏しながら後ろに続く。
赤いジャケットに黒いスラックス、長い、ふさふさの黒い帽子。
ワォ。おもちゃのチャチャチャの世界だ。
小さな頃に彼に貰った人形と全く同じ格好の衛兵がずらりと中庭に並んで、思わず嬉しくなってしまった。
指揮官の指示に従って行進する衛兵たち、リズムは誰一人乱れる事はなく、全員が同じ速さで銃を構え、
右手を挙げて、宮殿に向かって敬礼する。
ユニオンジャックの旗が掲げられる、女王不在の大きな宮殿。
誰の為にこんな事をやってるんだろう。ずっと昔からの伝統なんだろうけど……彼も、この行進、出来るのかな。
マーチに合わせて行進する衛兵の中に恋人の姿を思い浮かべて、俺は心の中で密かに笑った。
指揮官の人が号令を掛けて、衛兵が一斉に持ってる楽器を掲げて、鳴らす。
後でアーサーにも見せてあげようと思ってカメラをセットしようとした時に、俺の足元で、ぴこぴこ跳ねてる女の子を見つけてしまった。
年の頃4歳とか、5歳くらい?昔、アーサーの隣に居た頃の俺と同じくらい。
見えないのかな。見えないだろうな。
総立ちになっている大人の群れの中で、小さな女の子は哀しそうにブロンドの髪を弄って、
名残惜しそうに背のびをして、首を伸ばした。
May I help you?
俺は、人ごみにまみれて埋もれてしまっている小さな女の子にしゃがみこんで、目線を合わす。
ブロンドの長い髪の毛に、グリーンの瞳。アーサーとおんなじカラーリングだ。可愛らしい、イギリス人らしい整った顔。
無言でいる女の子に、そう笑って手を差しだしたら、彼女は小さく頷いて、俺の手をきゅっと握った。
「捕まってて」そう言って、軽い身体を肩に乗せて、後ろに人が居ないのを確認してから、立ち上がる。
見える?そう、肩車をした女の子に目線だけ上げて聞いてみたら、彼女は嬉しそうに「すごくよく見える」と笑って、グリーンの瞳をきらきらさせた。
「有難う」と笑う彼女に、俺は「ヒーローとしては当然さ」と笑い返して、手に持っていた携帯電話のカメラをポケットに仕舞った。
曲は変わり、鳴り響くのはイギリス国歌、『神よ、女王を守り賜え』。
今更だけど、ここ、イギリスなんだよなぁ、なんて、風でひらひらはためくユニオンジャックを見て思う。
昔は、多分彼とも来たんだろうな。全然覚えて無いけれど……。幼い頃の俺が、イギリスの手を握ってはしゃいでいるのが想像出来る。
もしかしたら、俺も、アーサーにこんな風に肩車とかしてもらったのかなぁ。
あの人、今の俺が可愛らしく「肩車して」なんて言っても、いそいそと嬉しそうにしてくれそうだ。きっと持ち上がらないだろうけど。
想像しておかしくて、少し笑う。
号令と一緒に、一糸乱れることなく行進する兵隊たち。流石、『イギリス』だ。本当に何から何まで、彼らしい。
口が悪くて粗忽で皮肉屋だけれども、いつも清潔で潔癖で、やることはしっかり完璧主義。
この衛兵たちも、今俺が肩車をしている小さな女の子も、歴史ある古い宮殿も街並みも、曇った空も、全部。
これが君なんだと思ったら、何だか全てが愛しくなった。
大きなハイライトが終わった後に、俺は肩車をしていた女の子をゆっくり下ろして、「見えた?」と笑って聞いてみる。
彼女は、嬉しそうに頷いた後に俺の頬にキスを一つして、「バイ」と手を振って踵を返して、走って行った。
俺も振り返して、キスを貰った頬を撫でてから、重たいバックパックを肩にかけて、よいしょ、と後ろに背負い直す。
まさか、あの子もアメリカに肩車されたなんて、思ってないだろうな……。
後で、アーサーに教えてあげよう。一つ、君の家でいいことをしてあげたよって。きっと喜んでくれるだろう。
ロンTの袖を捲って時刻を確認してみればまだ12時過ぎ……早めに家に行ったって、あの人仕事で遅くなるだろうしなぁ。
折角だし、他にも色々見て行こうかな。会議で来る時は、のんびり観光もしてられないし。
俺はもう一度マップを広げて、ポケットに入れっぱなしのガムを取り出して、口に入れた。
…………あ。近くにあれがある……ウェストミンスター寺院と、国会議事堂。ああ、ビッグベン見たいなあ。見に行こう。
ピーターパンを見た時から、行ってみたいと思ってたんだ。
地図を折り曲げながら、セント・ジェームズ・パークの隣を、履きなれたスニーカーでぽてぽて歩く。
6月はイギリスのベストシーズンみたいで、そこかしこに、彼の大好きな薔薇の花が咲いている。
家に行く前に、花でも買っていこうかな。そう思いながら歩いていたら、ジョギングをしてるイギリス人に挨拶された。
公園を抜けたら、すぐに大きなゴシック様式の寺院が見えた。……あれだ。やけに目立つ、でっかい建物。
もう観光地化されてるけど、お墓だろ…………歴代の、彼のお硬い上司達の。
一人で入るのもなんだか怖いと思って、ここは後でアーサーと一緒に見る事にしようと思った。
寺院の裏手には、ロンドンのシンボルである金色に輝く時計台。ビッグ・ベンだ。
テムズ川の反対側から見た方がよく見えるんだろうな……。古くからあるんだろうこの建物も、華やかで荘厳で、アーサーらしい。
欧州最大の建築物と言われる国会議事堂を左手にして、俺は曇ったロンドンの町を歩く。
雨の町、霧の町と言われているロンドンも、年中曇っているわけじゃない。
雨も降っても一時的で長雨は滅多にないらしいし、天候も、一日のうちに晴れたり曇ったり、太陽が顔を出せば気温は一気にあがって、暖かくなる。
何から何まで、アーサーだ。泣いたり笑ったり怒ったり、拗ねたり、すぐに機嫌が直ったり。
俺には無い、長くて重たい歴史や過去の人達の思いを一手に背負いこんで、欧州の中でも自分の通貨と高いプライドを捨てずに
彼は『イギリス』として立っている。
今は国の規模も小さくなってしまったけれど、それでもやっぱり他国に与えてる影響は計り知れない。
堅くて常に文句ばかり言うイメージしかなかったけれど、意外にフレンドリーな人達も多い。
お酒を飲んで陽気になる所なんかは、やっぱりこの国は、俺の家の宗主国なんだろうなと思った。
ロンドン塔、タワーヒル、大英博物館……結局他にも色々と見ておきたい所は出て来てしまって、結局俺は重たいバックパックを背負ったまま、
気がつけばくたくたになるまでロンドンの町を走り回ってた。
この時期の欧州の日没は遅い。時計を見たらもう21時を回ってて、驚いてパディントンに通じてるヴィクトリア線に乗って、うとうととゆっくり目を閉じる。
まだ、こんなに明るいのに……変なの。駅に出ても、まだ空は夕焼けにもなっていない。
住所を確認しながらパディントンの駅前をうろうろしてたら、何処からかフライドチップスのいい匂いがして、
目線を向けたら、パブに一杯のイギリス人が楽しそうにビールを飲んでいた。
ぴょんっ、と頭のナンタケットが跳ねる。
……そうだ、イギリスって、お酒の年齢制限は18歳までだ。俺の家じゃ、まだ俺の身体で飲んだら犯罪になってしまうけど、ここでなら。
アーサーの家まで、きっともうそんなに遠くないだろうし、ちょっとだけ。
わくわくしながら初めて一人でパブに足を入れて、カウンターで「一番美味しいのを」と1パイント頼む。
炭酸の抜けたみたいなぬるいエールビールは飲んでもたいして美味しくなくて、俺は思わずぶふっと吐き出しそうになってしまった。
近くに居た地元のイングランド人が、笑って俺の背中をばんばん叩く。
旅行に来てるアメリカ人だと伝えたら、わらわらと他の連中にも囲まれて、この間のサッカーの事や経済の事をよってたかって叩かれた。
俺も負けじと、いかにアメリカが素晴らしくて良い国かを熱弁して、何人かのイギリス人を唸らせる。
中にはアメリカ人である俺に喧嘩腰につっかかってくる人も居て、そういう人にこそ逆に燃えてしまう俺は、何とか彼らを納得させてやろうと、
気がつけばビールを片手に、イギリス人何人かと腕相撲なんてやっていた。
「イングランドの意地を見せてやれ」とはしゃぎたてるギャラリーに、俺は「アメリカはヒーローの国だ、負けないぞ!」と叫んで、
ぎりぎり奥歯を噛んで、笑ってバッタンバッタン倒してやった。
どっと上がる歓声に、笑い声。結局、その後はやんやと彼らに掴まって、気を失いそうになるくらいに飲まされた。