side:kiku
 
ぱかり。
目を開ければ、まだまだ暗い、部屋の中。遮光カーテンを少し開けてみたら、ぽかりと明るい月が見えた。
満月に近い、でも綺麗な真ん丸ではない、黄色の月。この人の家では月は何の象徴なのだろう。
月の満ち欠けは28日周期。地球の重力に影響を与えるあのぽかりと浮かぶ物体は、一人ぼっちで
見る日によって満ちたり欠けたり。
女性の身体の機能も、28日だというらしい。
いつしか子供を産むための準備期間、肌の生まれ変わる日の速度。28。
私の家ではよく言いますよ。女性の心は、月の満ち欠けみたいに曖昧だと。
少しだけ湿った、ぱさぱさの金髪。撫でて、梳いて、この方の心はどうなのかと静かに思う。
 
私を好きだと叫ぶその声で、どうして彼は他の男性の名前を呼ぶのだろう。
アルフレッド、聞こえないくらいの音量で、静かに、静かに、涙を流す。
 
どうして、なんで、あんな事になったんだ、なんでなんでなんで、なんで、畜生。畜生。
オレが悪かったのか?オレが原因なのか、オレが、オレが。なぁ、本田、助けてくれよ。
好きなんだ、本田。本田。お前は、裏切らないだろう。オレを裏切ったりしないだろ。
 
めそめそ、めそめそ。
喉を鳴らして、何度も何度も嗚咽を漏らして、緑色の瞳をぐしゃぐしゃ、涙でぼろぼろに溶かして。溶かして。
肩に縋って、静かに泣く。着物の合わせ目に手を入れて、緑の瞳をうさぎみたいに赤くして。
震える手で、何度も何度も背中を擦って、慣れない手つきで帯を解く。
 
しくしく。めそめそ。しくしく、しくしく、泣きながら。
泣きながら。アルフレッド。畜生、畜生。
 
右肩に乗った小さな頭を撫でて、何度も撫でて、大丈夫ですよと、彼が望んでいそうな言葉をかけてやる。
何か、理由があったんですよ。貴方を裏切った訳じゃない。大丈夫ですよ。ミスター・カークランド。
ぱさぱさ。長い睫毛に乗った涙が散る。赤くなった、大きな瞳。うさぎのようですね、と笑ったら、
彼は唇を合わせて私を布団に押し倒した。
雨戸を引いていなかったから、障子の隙間から差し込む、月の光。
 
あの月には、うさぎがいるんだろうか。目の前で顔と瞳を赤くして、寂しさで今にも死んでしまいそうな、彼によく似た。
地球からあんなに遠く離れた、宇宙にたったひとりぼっちで。今も、お餅をついているんだろうか。
ついてもついても、食べさせる相手のいない、悲しい餅を。
 
「・・・いいですよ、アーサーさん。それで、貴方の寂しさが紛らわせるのならば」
 
震える声。ちゃんと、笑えていればいいと思う。
手を伸ばして、髪を撫でて、珍しく乱れているカッターシャツに手を伸ばす。
襟元にはいくつか、派手に散る鬱血の跡。細い手頸には強く掴まれた、掌の、痣。
取り合えず付けているだけの、チェックのタイ。私の家の中でくらい、解けばいいのにと思ったそれを静かに静かに
抜いてやったら、彼は私の名前を呼んで身体を抱いた。
 
本田、本田、本田。本田。
 
そうやって、私の名前だけを呼んでいればいい。あの人と似ても似つかない、私の身体だけ抱けばいい。
大丈夫、私は貴方を、裏切らない。裏切られる事には慣れてる。大丈夫。大丈夫。
 
「・・・好きですよ。貴方は一人じゃない。大丈夫」
 
大丈夫。どちらに言い聞かせた言葉だろう。恐らく自分。一人じゃない。大丈夫。
何度も何度も名前を呼んで、乾いたシーツを握り締めた。
 
 
 
 
side:alfred
 
あんまりにも月が綺麗だったので、カーテンを全開にして、窓を開けた。
 
頬を撫でるのは、乾いた秋の夜の風。ぴゅぅっと吹いて、少しだけ肌寒い。
火照った、裸の身体。このくらいの方が熱は冷めるだろうか。
出窓に腰を落として、下半身を投げ出して、ぶらぶらと何も履いていない足を振る。
外から見たら、丸見えだろうなぁ。通報されるかな。
ふふ、と小さく笑って、窓辺に置いてある灰皿に手を掛ける。
絶対に俺は吸わない、太めの葉巻。ほぼ吸われていない長いままのそれは、力ずくで俺がもみ消したから。
ライター。あるわけない、だって、俺は煙草も葉巻も吸わないし、アルコールだって好きじゃない。
灰皿だって、彼が来るから、仕方無しに用意したんだ。側においてある、温くなった缶ビールも。
ぐいっと煽って喉に流し込んだら、炭酸の抜けたそれは、咽るくらいに苦かった。
 
まっずい。まずい、超まずい。
よくこんなの、笑って飲める。流石は味覚オンチ大国、涙が出る。
よくもまぁ、いつもいつも、くそまずい料理を作っては、俺の胃袋の寿命を縮めてくれた。
慣れてないくせに、手を傷だらけにして、沢山火傷して。そんなに傷こさえて作るなら、作らなくていいよ。
正直出来合いの物の方がおいしいし。
言いながらばりんとスナック菓子の袋を開ければ、彼はいつも憤慨して。
 
んなもんばっか食ってたら体壊すだろ、バカ、食えよ。
 
ずいっと出されるのは、真っ黒に焦げた炭みたいな魚。
どっちかっていうとこっちのが身体に悪そうだよ、そう言って笑っては、また怒らせて。
怒らせて、怒らせて、呆れさせて。ぽこぽこ頭から湯気を出す彼が、見てて楽しかった。
俺の為に怒る彼が、俺だけを見る彼の瞳が、好きだった。
独占したかった。俺を独占してる彼の腕からすり抜けて、外の世界を見て、もっともっと、大きくなりたかった。
 
嫌だったんだ。俺を狭い狭い彼の中に閉じ込めて、外に出してくれないアーサーが。
俺の知らない、国の名前。人。時々持ってくる、外の匂い。俺にとっての世界は彼だけなのに、彼にとっては、そうじゃない。
フェアじゃない。そう、思っただけだ。嫌だったんだ。彼と同じラインに、立ちたかった、それだけだった。
 
畜生、畜生。なんでだよ、なんで、なんで、なんで、なんで、畜生、畜生。畜生。
泣かせたかった訳じゃない。あんな風に、泣いて欲しかった訳じゃない。
 
目の前にぶらぶら、投げ出してる足を見ながらもう一度缶ビールを口つけたら、今度こそそのまずさに大きくむせた。
大きく育った、自分の身体。彼の手を離れた途端に成長が大きく始まった身体は、もう彼を見下ろすほどになった。
ようやく、彼を守れるようになったと思ったのに。
彼を泣かせたくてここまで大きくなった訳ではないのに。あんな、捨てられたみたいな瞳で、どうして俺を見るんだろう。
悲しみ。憎しみ。裏切られたと、どうせお前も他の奴等とおんなじだと、諦めたような、冷たい瞳。
 
ねえ、どうして、君はわざと一人になりたがる。
自ら自分の殻に閉じこもって、大きくなった俺を見ないんだ。
君の為に、君の為だけに。言葉じゃわかってもらえないなら、身体でも。
 
かん、とカラになったビールの缶を出窓に置いて、小さく小さく、息を吐く。
暗い空に浮かぶは、ぽかりと大きな、丸い月。
いつか菊に聞いた、あの話は本当だろうか。月にはうさぎが住んでいて、一匹で何か食べ物を作ってる。
あんなに遠くにいちゃ、折角作ったって、誰も食べてくれないだろう。
いつまで、君は一人でいるんだ。さっさと、ここまで降りてきてよ。
 
部屋の中には乱れたシーツ、熱の冷めたスプリング。
枕に残るは、彼が好んでつけていたウッディ系の軽い香水。
 
すん、と小さく鼻を鳴らして、顔を埋めて。
そのまま静かに、出窓を閉めた。
 
 
 
 
side:arthur
 
はぁ、はぁ、はぁ、はぁ。
 
息が、整わない。心臓が爆音で悲鳴を上げて、肺がぎゅぅぅと引き絞られる。
流れる汗は涙と一緒にこめかみを伝って、頭皮の中へ。
ローファーを鳴らして、ジャケットを持って、乱れたシャツはそのままに、全力で。走る、走る、走る、走る。
走る、ひゅぅ、ぜい、ぜい、ぜい、息が。肺が。つぶれる。
足を休めたら今度はあとからあとから涙が止まらなくなって、更には呼吸音と共に嗚咽も止まらなくなって、
それで全力で足を動かして、また走った。
 
たす、たす、たす、たす、静かな静かな夜の街には、自分の足音と呼吸音しか耳に入らない。
はぁっ、はぁ、はぁ、うるさい、うるさい、呼吸の音。はぁはぁ、うるさい呼吸音は耳から入って、そのまま脳へ。
 
やめろ、やめろ、やめろやめろやめろやめろ、やめてくれ!!
はぁっ、はぁっ、はぁっ。耳に焼きつく、荒い呼吸。
頭を振って、抱えて、そのままその場に小さく小さく蹲った。
 
ひゅぅ、ひゅぅ、喉がやける。じわっと汗は滲むのに、身体はちっとも熱くならない。夜風に当たって、冷えていく。
膝を抱えて、顔を埋めたら、がちがち、小さく奥歯が震えた。
 
痩せた手首には強く握られた、掌の跡。ぎちっと頭上で抱えられて、渾身の力を出してもびくともしなかった、でっかい体。
名前を呼ぶ、熱の篭った男の声。どうして、どうして。
オレから離れる、その言葉を紡いだその口で、同じ声で。「君の側に」どうして、そんな嘘をつくんだ。
あとからあとから涙は出てきて、止まらない。もう沢山だ、限界だ。
これ以上、どうやって自分を支えたらいい、虚勢を張って、意地を張って、それでようやく立ってるこの身体を。
これ以上、オレを壊さないでくれ。どうせ裏切るのに、また裏切るくせに、期待なんてさせないでくれ。
一生懸命愛を注いだ、その顔で。オレの大好きなその声で、オレの弟を、これ以上汚さないでくれ!
 
ひっ、喉が鳴って、胸が上下する。
足元を見れば、細い影。街灯。灯りはついていないのに、影が。ひくひく、喉を鳴らしながら上を見上げてみれば
ぽかりと丸い黄色が見えた。
真ん丸、とまではいかない、中途半端な大きな月。暗い地球を見下ろす、明るい月。
流れる涙は顎を伝い、首筋へ。少し乱れたカッターシャツへ吸い込まれて、冷たくなる。
ぐしぐし、鼻を啜って見上げていたら、月と目があってるような気がして、涙が止まった。
 
ご存知ですか?月にはうさぎが住んでいて、一人でお餅をついてるんですよ。
 
明るい、黄色い、丸い月。地球から遠く遠く、太陽の光を受けて光る星。
満ちたり欠けたり、せわしなく。それはまるで、人の心のように、移り気に。
 
いつの間にか、奥歯の震えは止まってた。上下する喉も、流れる涙も、消えなかった、手首の痛みも。
優しい、優しい、ほのかな光。黄色く光る、暖かい月。
ゆっくり地面に手を付いて、ゆっくりゆっくり、身体を起こす。
息を吸ったら、ぴんとした夜の空気がすぅっと自然に、肺に入った。
 
「・・・・・・本田」
 
小さく名前を呼んで、再度ふらりと走り出す。月の満ち欠けは移り気で。誰も何も、信用は出来ないけど。
もしかしたら、もしかしたら、あいつなら。
柔らかく笑う、夜の空みたいに黒い瞳。形の変わってしまう月よりも、よっぽどよっぽど、確実な。
 
ふらふら、足はそのまま見知った道をそのまま歩いて。
何をしたいのかもわからないまま、オレは流れる涙をぬぐう事無く、静かに静かに、扉を叩いた。
 
 
 
 
 
うさぎ うさぎ なにみて はねる
じゅうごや おつきさん みて はねる