「アーサー」
「んー……待て、もうちょっと」
「……さっきも聞いたぞ」
「悪い、この延長戦終わってから」
珍しく、二人で休みの取れた週末。
アメリカで行われる会議に出席した恋人は、仕事の都合で他のホテルに一泊してからワシントンの俺の家にやってきた。
俺が珍しくNYのアパートではなくこっちに居るのは、彼の仕事の用事がこの近くだったからだ。
ホテルを出る前に『今からニューヨーク行きの列車チェックするから』と電話があった時に、「D・Cに居るよ」と伝えたら、
アーサーは電話の向こうで驚いた声を上げた。
『お前もワシントンで仕事だったのかよ?』
「違うよ。昨日から俺オフだし」
『昨日から?』
「うん」
ハウスキーパーが綺麗にメイクしてくれたベッドの上で、俺は買ったばかりの携帯電話を耳に当てながらクッションを投げた。
ホワイトハウス近くの大きな本宅……正直、堅苦しくて好きじゃない。
街を歩けばすぐに上司に見つかるし……居留守を使っても、家に乗りこまれてすぐにばれる。
『折角の休みなのに、どうしてこっちに』、なんて。
そんなの、少しの時間でも君と過ごしたいからに決まってるだろ。バカアーサー。
すぐ行く、と電話が切れて、本当にその後すぐに彼は来た。
家の世話をしてくれている家政婦に「アーサー様がいらっしゃいましたよ」と呼ばれて、慌てて一階に降りて、彼を迎えた。
「何だ、本当にすぐ近くに居たんだ」
「ホテル、そこだったから……お前がこっちに居るなら、呼べば良かったな」
彼の重たそうなスーツケースは一階のリビングに置いて、二人で大きな廊下を歩いた。
アーサーの家ほどでは勿論ないけど、この家も結構古くて、大分年季は入ってる。
壁紙が昔のキルト模様のままなのは、アーサーが好きだと言ったからだ。
……俺は正直好きじゃないけど、あまり帰って来ないこの家くらいは。
彼から貰った昔の趣味のままでもいいかなと思って。
「この家来るの、本当久々だな……。あ、なぁ、お前が見たいって言ってた試合、NYだろ」
「うん。少ししたら出ようよ」
トントンと階段を上がって、更に続く廊下をスニーカーとローファーで歩く。
本当にこの家、部屋数が多すぎるんだ。アーサーにそう言いながら振り返ったら、
彼は「オレはこれくらい無いと落ち着かない」と言った。
「君は色々する事が多いからね……どうせ、刺繍の部屋とかサッカー観戦の部屋とか、エロ本読む部屋とか分かれてるんだろ」
「……エロ本は寝室で読むだろ。分かれてねーよ」
「俺は一つの部屋で十分だから、こんなに部屋数いらないのに」
二階の、一番奥の部屋。
日当たりのいいこの部屋は寝室だったけど、色々持ちこんで隣の部屋の壁をぶち抜いて、俺専用の遊び部屋兼寝室にしてしまった。
「入って」と扉を開けたら、アーサーは「汚ねえ」と言って、噴き出した。
「お前、部屋はNYのアパートと変わんねえな」
「手を伸ばせば届く所に全部あるから、便利なんだぞ。ゲームも、コーラも」
「身体年齢19歳でカウチポテトしてんじゃねーよ」
笑って、彼は手に持っていたバーバリーのベージュのトレンチとマフラーを、出しっぱなしにしてあるハンガーに掛けた。
「クローゼット、開けていいか?」
「どうぞ。えーと、NYまでって何時間だっけ……」
彼と観に行こうと言っていた、バスケの試合。試合自体は明日昼からだけど、出来れば朝のうちには着いていたい。
出来れば、今日の最終の電車で……と、ノート型の端末をぱかんと開けてカチカチ弄っていたら、アーサーが「あっ」と声をあげた。
「なに?」とクローゼットの前にいる彼を見れば、こちらを見てニヨニヨと嬉しそうに笑っている。
…………?なんだ?
テキサスを嵌め直して、もう一度「なんだい」と問いかける。
ポールスミスのシャツのボタンを少し緩めた彼は、イギリス人らしい、皮肉めいた唇を片方持ちあげて、にやりと笑った。
「エロ本見つけた」
「えっ、う、うそ!」
「ふぅん、お前、こういうのが好きなんだ……着てやろうか?今度」
「ちょっ……結構だよ!返してくれよ!」
ジーザス!
座っていたスツールを倒す勢いで立ち上がって、湯気の上がりそうな頭でアーサーの手からそれを奪い取った。
くそ……い、いつ買ったやつだ?最近、全然こんな物読んでなかったのに……。
によによ笑うアーサーに、俺は「あー、もう」と頭を掻き混ぜてからそれをゴミ箱に投げる。
「何だよ、恥ずかしがる事ないだろ」と背中から圧し掛かるアーサーに、「恥ずかしいよ」と投げやりに唸った。
「誤解しないでくれよ、君と付き合う前に買った本だぞ。ずっとこの家帰って来て無かったから……」
「あ?いや、別にいいってば。ポルノ雑誌くらい普通だろ」
「俺が嫌なんだよ……第一、ポルノ雑誌なんかより、俺の頭に居る君の方がエロいのに」
「………………」
「……あ」
背中から首に巻きついている腕が、赤くなる。
……しまった。失言。
再度「ジーザス」と心の中で天を仰いで、目を瞑った。
俺とアーサーが付き合いだしたのはここ最近で、そろそろ三か月になる。
住んで居る場所も遠いし、お互い中々自由の利かない身だし……と言う事で、
実質恋人として会ったのは、数えるくらいしかないけれど。
こういう関係になる前はちっとも気にならなかった太西洋も、時差も、会議の日程も、今では嫌になるくらい気になる。
会議とは云え、会えると思うと心が弾むし、別れる時は寂しくなる。
昔の確執やら何やら色々あるし、何だかんだ長い付き合いだし……。
恋人になったって、こんな浮足立った気持ちになるだなんて予想してなかったのに。
「アーサー」
「ん?」
「キスして」
「……すればいいだろ、お前から」
「君からして欲しいんだってば」
「ガキ」
少し笑ったアーサーの声が聞こえて、その後に両手で頬を包まれた。
顔を上向きにされて、後ろから唇を塞がれる。変な体勢で、少し苦しい。
一度唇を離して正面を向いて、立ち膝になっている彼の首に腕を回した。
「……ん」
……まさか、彼とこんなキスをするようになるとはなあ。
アーサーだって、考えた事もなかっただろう。
いつから彼の事を好きだったのかなんて、覚えてない。
月並みな言い方だけど、気がついたら目で追うようになっていて、触れたいと思う様になっていた。
恋人にして欲しいと言ったのは、俺から。当然だけど、最初の彼の返事は『NO』。
断られるのなんて、想定内だ。彼が、昔の事や俺達の立場についてぎゃんぎゃん言うのも、予想範囲。
それでも、個人的に、アルフレッドとして好きになってしまったんだから仕方ないだろ。
彼が絶対に俺を払い退けられる訳が無いと言う事も分かっていたから、悪いけどそれも利用して、囲ってやった。
アメリカ男を舐めるなよ。
持ち前の強引さと粘り強さと、こうと決めたら一直線な性格をフルに活用して毎日「好きだ」と訴えたら、
案外彼はすぐに腕の中に落ちて来た。
あと、100年くらいはかかるかと思ってたけど。良かった。
笑って「有難う」とキスをしたら、アーサーは「あと100年も、一日30回も40回も好きだって言われたら、逆に嫌いになる」と言って、
同じ様に笑った。
キスは、数えきれない位。身体を重ねたのはまだ二回。
身体の相性がいいか悪いかなんて、そういうのは俺には分からないけど……気がおかしくなるくらいに気持ちが良かった。
「……ん……んっ、あ、アル、ちょっと」
「……なに?」
「んー……ぷは、悪い、あの」
「うん」
「……ぶち壊して悪いんだけど、テレビ、見せてくれねーか……サッカーの試合が」
「………………」
……本当に悪いよ。
アーサーの唾液に濡れた唇のまま、息のかかる距離で頬を紅潮させながら……俺は、肩を落とすのを誤魔化すみたいに頭突きした。
「……まだ?延長戦」
「くそ……終わらねーな、ダラダラしやがって……PKか?チェルシーになんか負けてみろ、ぶっとばしてやる」
「『イギリス』として、一つのチームを贔屓するのはどうかと思うけど」
「オレ個人の好みだよ。金持ちチームなんて大嫌いだ」
「労働階級の人達みたいな事を……」
どうでもいいけど、俺は全く興味が無いんだけど。
すっかりソファでサッカー観戦の為に腰を落ち着けてしまった恋人の隣で、飲みかけのコーラを飲んでテーブルに置く。
隣に居るアーサーは緑色の瞳を歪めて舌打ちしたり、テレビに向かって文句を言ったり……。
本当、イギリス人てサッカーになると周りが見えなくなる。
ついでに、滅茶苦茶ガラが悪くなる。特に、彼のお気に入りのチームはフーリガンが多くて有名だし。
ビッグロンドン・ダービーだぞ、と言われても何のことやらさっぱりだ。
放っておかれたまま特にすることも無くて、ごろりとソファに寝っ転がって、彼の身体に巻き付いた。
アーサーは「ごめんな」と一応謝って、俺の頭を小さく撫でる。
すぐにテレビに移る視線に、まあいいやと思って、勝手に身体を抱きしめて目を瞑った。
別に、何をする予定でもなかったし……NYになんて、明日移動すればいい。
バスケの試合だって、どうしても見たい訳じゃないし。
こうして、一緒に居られるだけで満足だなんて、いつから俺はこんなタイプになったんだろう。
こっちを見てくれない恋人を抱きしめて、香りを嗅いで、部屋の中でうとうとする事に幸せを感じるなんて。
少し伸びあがって首の辺りの匂いを嗅いでいる時に、アーサーが「勝った!」と叫んで立ち上がった。
当然だけど、彼の腰に巻きついていた俺はソファから落ちた。
流石にアーサーも焦って、「ごめん!」と謝って俺の手を取って起こしてくれた。
……いいけどさ、別に、もう。
すぐに元の位置に戻って、さっきと同じ様に彼の首元に顔を埋める。
アーサーはくすぐったそうに笑って、俺の背中を撫でてくれた。
いつもしっかりと締められている、第一ボタン。今日は二つ目まで緩められていて、タイも無い。
プライベートで会うよりも、仕事で会う事の方が多いから、新鮮だ。
ああ、休みっていい。今日、週末なんだ。
思って、すん、と鼻を鳴らしたら、首からいつもと違う香りがした。
「……あれ?君、こんな香水つけてたっけ」
「え?……あ、休みの日だけ。レディースものなんだけど」
「……甘いな。珍しい」
「嫌いなら、つけない」
「嫌いじゃないけど」
アーサーがいつも仕事の時に付けているものは知ってる。
バーバリーの、ブリット・フォーメン。
調香師がテーマにしているというブリットマン(英国紳士)の名前の通り、正統派の彼らしい匂い。
首元から少し香るのはいつもよりうんと甘くて、果物や花の香りがする。
「なに?」と聞いてみたら、彼は同じバーバリーの香水だと教えてくれた。
「バーバリーの、ウィークエンド」
くせもあるし、本当に週末しかつけられない、と言って、アーサーは笑った。
甘い甘い、果実の香り。香りに寄せられる昆虫みたいに彼の首筋に顔を埋める。
アーサーは「こら」と俺の髪を引っ張ってから、リモコンでテレビのスイッチをぱちっと消した。
「悪かったな。出掛けるか?」
「……ううん。いいや。今日はゆっくり君と過ごす」
「……そうか?折角の週末なのに」
「うん」
彼を抱きしめたまま、甘い香りに目を瞑って、軽く耳の下にキスをする。
アーサーはくすぐったそうにしてから、俺にも同じ様に返してくれた。
二人で小さく笑って、目を合わせてから、ゆっくり閉じる。
静かに唇を合わせたら、立ち昇る香水の様に、彼の舌まで甘い気がした。
忙しくて、なかなか会えない年上の恋人。
たまには、こんな甘い週末。