ヰタ・セクスアリス 黒

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甘い運命 / かきおろし





その瞳は、青とも翠ともいいがたい、不思議な色を持っていた。
いつか海の中で見た、深海に群る珊瑚礁のような色だと思った。

一、

海に行きたい。
 そうふと思ったのは、学校を休んで長期の旅行に来ている最中だった。ドミトリータイプの宿の中で何人かの人から情報を貰って、その日のうちにチェックアウトして部屋を出た。



タイ、バンコクから夜行バスで半日かけて南に下ると、明け方にチュンポンという港町に到着する。海に出る為の小さな町だ。古くから貿易港として栄えていた町の様だけど、最近では『近隣の島に行く旅行者が寄る町』として名前を聞くことの方が多い。
俺が行きたい島には、ここから船に乗り換えてまた三時間程かかるらしい。夜を通してバスに揺られていたものだから身体があちこちおかしくて、少し伸びをするだけで関節が鳴った。
(すごい……あの毛布、蟻だらけだったな。噛まれまくった)
寝不足の目を擦りながら、シャツから伸びた手を叩く。服を着ていない部分には赤い斑点があちこちについていて、ものすごく痒い。バスで渡された毛布と、シートだ。きっと。周りを見れば他の旅行者も俺と同じ様に身体のあちこちを見ながら、「かゆい」と悲鳴を上げて笑っていた。
安いバスだったしな。きちんと時間通りに目的地に届けてくれただけ、まだましだ。
「船が来たぞ」
恐らくそんな意味の言葉を現地の係員が叫んで、パックパックを背負ったツーリスト達はスニーカーを鳴らして外に出た。
まだ空は暗く、アメリカでは見ないアジアの夜空には、星がいくつか瞬いていた。
オンシーズンならまだしも、この時期に島に行こうなんていう観光客は、通常ではほとんどいない。歩きやすいスニーカーにデニム、キャップ、寝袋の入った大きなバックパック……それ一つで旅を続ける、所謂バックパッカーと呼ばれている人達が大半だった。
旅の目的は様々だけど、大抵のパッカーはこういった不便さにも文句は言わない。高いお金を払って快適に旅をするよりも、必要最低限の費用を使って自分の足で回る、というのがバックパックツーリストの基本だからだ。
まだ夜中と言ってもいい真っ暗な中、俺たちは長い長い桟橋を歩いて、フェリーの船着き場に向かった。
 船に乗り込む時に、後ろにいた女の子の手を引いて、引っ張り上げた。彼女はそばかすの残る頬を緩めて、「グラツィエ」と言って笑った。イタリアの人かな。俺も合わせて「プレーゴ」とイタリア語で返して笑って、乗り込んだ船の甲板に荷物を降ろす。
 船の待機室は狭く、すぐに一杯になってしまったので、ほとんどの男は女の子たちにその場を譲り、外の甲板に腰を降ろしていた。
カタマランタイプの安い船は、安いだけあってスピードも遅い。別に急ぎの旅でもないし。隣に座った同じ歳くらいの男の人に「煙草は持っているか」とジェスチャーで尋ねられて、「持っていない」と片手を上げた。
「どこから?」
「オランダだ。アムステルダム」
「へえ。一度行ってみたいんだ。いい街かい」
「最高だ。来てくれたら歓迎するよ」
「アメリカもいい所だよ」
パッカー達の会話は、大抵こういうものから始まる。
旅好きの人間が集まり、情報交換をする。一期一会の交流になることもあれば、目的が同じなら一緒に行動する事もある。言葉は英語が少しでも話せれば困らない。この点では、アメリカに生まれて良かったと思った。
アジア方面に来たのは初めてだったけど、意外に欧州の人が多い事が分かって驚いた。皆、このアジア特有のオリエンタルな雰囲気に惹かれるそうだ。俺も例外ではなく、アジアを旅するパッカー達のお決まりコース、ベトナムとカンボジアを回ってきたばかりだった。
それを伝えたら、彼は片言の英語で「俺はこの後に南に下って、マレーシアに抜けるんだ」と俺に言った。
「ああ、だからこっちの方に」
「船でマレー半島に渡って、マレー鉄道に乗るつもりなんだけど、まだ路線図を手に入れてなくて」
「あ、俺、ロンリープラネットのならあるぞ。あげるよ」
旅をしていると地球は広く感じ、逆に世界地図は小さく見える。お礼の後に「お前は?」と尋ねられて、俺は「何も決めていない」と地図を渡して答えた。手持ちのお金が尽きたら、アメリカに帰るつもりだった。

陽が出てくると、遮るもののない海の上で、甲板はまるで火にかけられたフライパンみたいに熱くなった。
海上での直射日光は凄まじい。夜は、少し肌寒いくらいだったのに。次々とシャツを脱ぎだす旅行者たちに倣って、俺もTシャツを脱いでから船の船尾に向かっていった。
「あ……っついな。すごいな……」
港の桟橋より遠ざかってから二時間。
生活汚水で濁った黄色い川を抜けると水の色は緑に変わり、更に沖へ進んで行くと、深い藍のような色に変わった。
サングラスを外すとよくわかる。アメリカのビーチとは違う、どこまでも深いコバルトブルー。
頬を撫でていく風は熱気と湿気を孕んでいて、船の上だというのに、裸の上半身をじっとりと湿らせていった。



『タオ? プーケットやサムイじゃなくて?』
『プーケットは今雨季だし、サムイは駄目よ。観光客だらけで』
『聞いたことないぞ。そんな島』
『だからいいのよ。知られてないから、皆あまり行かないの』
バンコクの安宿街、カオサンのドミトリーで数日一緒になったカップルは、そう言って俺に地図を渡してくれた。
海が好きだという彼らに「何処かいいビーチはないか」と尋ねたら返って来た答えだった。
『ふうん……じゃあ、行ってみようかな』
『小さいけど静かだし、あと、潜るにはタオは世界一よ』
腕と首にハートとクロスのタトゥを入れた女の子は、そう言って白い歯を見せる。隣にいる彼女のボーイフレンドは、彼女の腰に片手を回しながら、反対の人差し指と親指で何かを摘まむ様な形を作り、それを口元に持っていって「コッチも」と、煙草を吸う様な仕草をした。
『俺はそっちはいいよ』
右手をあげて笑ったら、彼は隣にいる彼女に「バカ」といって殴られていた。

「着く? もうすぐ? 見えるのかい、島は」
船尾にいた現地の乗組員が、日に焼けた手を海の向こうに示しながら俺に言った。
タイの言葉は正直わからない。バンコクでは英語も多少は通じたけど、こういう地方に来ると全くだ。ただ、俺達の様なただのツーリストやそれを迎えてくれる人達にとって、言葉はそう大した問題ではない。ジェスチャーでなんとなく伝えてくれている事はわかるし、お互いに「理解しよう」という気持ちさえあれば、コミュニケーションには困らない。ビジネスの世界では別だけど。これも、旅を始めてからわかった事の一つだった。
船はスピードをあげて、まだ小さく見えるその島にぐんぐんと近づいていく。
どんな島なんだろう。海は綺麗だろうか。食べ物は美味しいだろうか。住んでいる人は優しいだろうか。
初めて行く土地には、いつもどきどきして緊張する。隣にいる乗組員に尋ねてみたら、彼は俺に親指を立てて笑ってみせた。
「パーフェクトだ。何もかも、楽園みたいな島だ」
 地元の人達より「楽園」と称されるそのコ・タオと呼ばれる小さな島は、話に違わずとても美しい場所だった。

島に着いてからはメイハート地区と呼ばれる港から大きなワゴンに詰められて、島の南東にあるリゾートまで連れて行かれた。バンコクでバスの手配をする時に、一緒に宿も取ってもらっていたのだ。
到着したのは立派な門構えのある、ガイドブックで一度は目にする様な、ゴージャスなアジアリゾートだった。
(……あれ?)
 ……こんないい宿、頼んだ記憶はないぞ。
 一瞬運転手が勘違いしているのかと思ったが、ここで間違いないという。俺の持っているバウチャーもここと同じ名前が書いてある。
もうホテル代も含めて金額は代理店に払ってしまった後だけど、もしかしたら勝手にグレードを上げられたのかと首を捻った。
「今のシーズンに宿を開けているのは、ここだけなんだ」
車の前で不審そうに眉を寄せている俺を見て思う事があったのか、運転手はおかしな英語でそう言った。
「あんたみたいな貧乏旅行者を連れて来ると、皆そういう反応をする」
「そうなのかい。こんな所、泊まったことがなかったから……」
「安心しなよ。ハイシーズンはバカ高いけど、今の時期ならそうでもない。それでも俺たちが簡単に泊まろうという額ではないがね」
そう言って煙草をふかす運転手に、俺はポケットから何バーツかのチップを出して渡した。
(……この国の平均所得って、どれくらいなんだろうな……)
住む地域によって差はあれど、やはりアメリカは裕福な国なんだとこういう国に来て思う。俺みたいな若造が、貧乏旅行とはいったって娯楽で海を渡って、こんなリゾートに泊まれてしまうくらいには。
タイランドは首都の近代化も進みだいぶ発展はしているけど、まだ途上国のカテゴリには入るんだろう。逆に、急激な経済成長が大きな経済格差を招き、貧富の差をもたらしているという話も聞く。
自分の足で旅をすると、色々と国の事情を肌で感じる事も多い。それでも、俺が体験している事なんて、物事の一番浅い面の一部にもなっていないんだろうな。
アメリカに戻ったらもっと勉強しよう、なんて思いながら、籐で出来た大きな門をくぐった。
英語でフロント、と書いてある案内を見て、場違いじゃないかなんて思いながら豪華なロビーをスニーカーで歩く。この国の民族衣装だろうか。ドレスを摸した制服を着た従業員が、通り過ぎる時に俺を見て微笑んで、両手を合わせて挨拶をしてくれた。



「……え? 本当に? うそだろ」
フロントで自分の予約バウチャーを見せながら、俺は大きな声をあげてしまった。
「どうしてだい。もう金額は払っているはずだけど……」
「ミスター、申し訳ありません。確かに予約は頂いているのですが……」
 従業員たちの、焦ったような声が聞こえる。
一人英語が少し話せるくらいで、他の人達はほとんど話せないようだ。「オーバーブッキング」いう単語が聞こえて、俺は、ジーザス、と息を吐いた。
手配した代理店のミスか、それとも宿側のミスか……なんと、俺の予約していた部屋に、もう違う人が入っているらしい。俺の何時間か前にチェックインしたその人で、今日は満室になってしまったということだった。
(どうしよう)
従業員たちも困っているけど、俺も困る。
あの運転手は、今開けているのはこのリゾートだけだと言っていたし、何よりももう日は沈みかけているし。今から他に泊まれる所を探すと言ったって、土地勘もない場所で、果たして見つけることができるのか。
フロントの従業員は心底弱り果てた顔をして、「申し訳ありません」と片言の英語で言って頭を下げた。一緒に、他の従業員も俺に向かって頭を下げた。
「いや、いいんだけど、何とかならないかな……他に空いている部屋はないのかい」
 俺が逆に恐縮してしまう。そんな丁寧に謝って貰わなくたっていいんだ。ただ、今夜眠れる場所があれば。
 そう、一番英語のわかりそうな若い女の子に伝えたら、その子は俺の話している言葉が通じないらしく、更に泣きそうな顔をした。
「すみません、難しい言葉はわかりません」
「ええと……他に英語を話せる人は?」
Does anyone speak English?
タイランド語ではなんて言うんだ。
「今日は英語が出来るスタッフがお休みで……」
同じような顔をしてこちらを見上げる従業員たちに、俺はがっくりと肩を落とした。
「May I help you?」
発音のいい母国語が聞こえた。
次いでかつんと石を叩く様な音が聞こえて、後ろを振り返る。
しばらく聞いていなかった英語にほっとして、思わず小さく息を吐いた。そして、声の主の姿を見たと同時に、吐いた息を一瞬止めた。
そこにいたのは、一人の男の人だった。
金色の髪に、日に焼けていない白い肌。すぐにこの島の人間では無いということは分かったが、一番に目を引くのは、その特徴的な色合いの瞳だった。
その瞳は、青とも翠ともいいがたい、不思議な色を持っていた。
いつか海の中で見た、深海に群る珊瑚礁のような色だと思った。
「タイ語なら、少し話せるけど」
その彼は俺を見ながらそう言って、石の廊下を歩いて近づいて来た。
身惚れていた自分に気がついて、ああ、と慌てて返事をする。
「本当かい。実は予約がブッキングしていたみたいで……」
「ああ……」
「どうにかならないかな。他のホテルを紹介してもらってもいいんだけど」
そう伝えたら、彼は翠色の瞳を伏せてから、すっと俺の前を横切った。そのままフロントに腕を乗せて、従業員に話しかける。タイ語だ。何を話しているのかは分からないけど、俺の要望を訳してくれているんだろうか。
(……びっくりした。男に見惚れたなんて初めてだ。すごい目だな……)
伏し目がちの瞳は、離れていてもその色が分かる。
金色の長い睫毛に縁取られる翠色。
何処の国の人なんだろう……混血かな。思っているのは俺だけではないらしく、何人かの従業員もまた同じ様に、タイ語で対応をしている彼の顔を盗み見ていた。
彼が顔をあげて俺の方をちらりと見てから、フロントの人間に何かを告げる。従業員は困った顔を崩さずに肩をすくめて、地図を広げながら彼に見せた。
俺に声をかけてくれた男の人は、口元に手をやってから息を吐いた。
「生憎、どこも埋まってるってよ。他の宿は今はオフになってるみたいで……」
「ええー」
「災難だな」
太めの眉を寄せる彼に、俺は「わかった」と言って手をあげた。周辺の宿がない、と言っていたドライバーの言葉通りだった。
最悪、野宿だ。仕方ない。外はこの時間でも蒸し暑いし、物盗りにさえ気をつければ大丈夫だろう。
(やっぱり、寝袋持ってくればよかったな……)
そう思いながら、重いバッグを背負い直した。翻訳をかって出てくれた彼に「ありがとう」とお礼を言って、フロントのスタッフにも頭を下げる。
彼は、綺麗な色の瞳を細めて俺に尋ねた。
「どうするんだ?」
「港まで戻って、泊めてくれそうな家を探すよ。もし無理だったら、野宿でもして何とかする」
明日からのことは、明るくなってから考えよう。
履き潰したスニーカーを鳴らして踵を向けたら、少し躊躇ったあとに「おい」と呼びとめる声が聞こえた。
「なんだい」
「……オレが泊まってる部屋でよければ、来るか?」
「え?」
「広いし」
 声が、広いフロントの壁に響いた。真っ直ぐな翠色の瞳が俺を見据えている。願ってもない申し出だった。
「いいのかい」と二つ返事で頷いて、バックパックごと彼に振り向いた。助かった、という気持ちが顔に出ていたんだろう、彼は俺を見て少し笑った。
「本当に助かるよ。ありがとう」
「いいよ。どうせダブルの部屋だし、オレ一人だとシングルチャージかかるし」
もう一度大きな荷物を床に置いて、フロントのカウンターに腕を置く。自分と相部屋で、というような事をフロントの人間に伝えて、彼は俺のことをちらりと見た。
フロント係である浅黒い肌の色をした女の子が、胸に手を当てて彼に対して深く頭を下げる。その後に俺にも。表情と仕草で謝罪なんだろうということがわかり、俺は「いいよ」と笑ってボールペンを手に取った。
アルフレッド・F・ジョーンズ。
 宿泊の用紙に名前を書きながら、彼に「アルフレッドだ」と自分の名前を伝えた。
「君は?」
「……アーサー」
「アーサーか。よろしく。よかったら、アルって呼んで」
手元から顔をあげてそう言ったら、アーサーも同じ様に「よろしく」と言って、微笑んでくれた。
近くで見る彼の横顔は、人形のように整っていた。
アーサー。変わった色の瞳といい、……どこかで、見たことがあるような。
(……忘れないか、こんな目の色の人と会ったことがあったら)
少し記憶の奥に引っかかる様な気がしたけど、特に珍しい名前でもないし。思って、用紙をフロントに返してから、自分の荷物を持ちあげた。


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