二、
ポーターを断ってアーサーに案内してもらった部屋は、敷地の中を少し歩いた所にあるコテージだった。
小さな庭があって、入口にはアジアリゾートらしいダークブラウンの籐の簾がかかっている。完全にハネムーナー向けに作ってあるんだろう、隣のコテージとも距離があり、椰子の木や植え込みで他の部屋が覗けない様になっている。
こんな所に泊まるのは初めてで、俺は汚れたバックパックを背負いながら、興味深くあちこちを見渡していた。
「君、いつからここにいるんだい」
「……一週間くらい前からかな」
「一人だと肩身が狭そうだな」
「そうでもねえよ。他の客とあんまり会わないし」
「へえ……」
前を歩くアーサーが、ハーフパンツのポケットから木のホルダーが掛かっている鍵を取り出す。カチ、と鍵を入れて開けられた扉の向こうは、思っていた通りにすごい部屋だった。
(スイートだ。広い)
ドアを開けてすぐに、広いリビングがあった。ソファが二つと、大きなテレビモニターがある。真正面の壁一面が窓になっていて、そこに白い麻のカーテンが揺れていた。生ぬるい風が部屋の中にはいってくる。強い湿気を含んだ空気。吸いこんだら、タイ特有のほのかな線香の香りがした。
中に足を踏み入れて、荷物をおろさずにリビングから続く寝室を見た。籐で出来た大きなベッドがどんと真ん中にあって、そこに天蓋の様なものが吊るされている。バリのガイドブックとかでよく見るようなやつだった。
全体がダークブラウンで統一されているのにシーツと枕だけは真っ白で、ロマンチックな作りになっていると思って少し笑った。だって女の子が喜びそうな部屋に、男二人でいるなんて。
海が近いんだろう。波の音が部屋の中まで聞こえている。
俺の後から部屋に入ってきたアーサーが、寝室のカーテンをシャッと開けた。
「ベッド一つしかないけど、キングサイズみたいだから大丈夫だろ」
「ああ。ありがとう」
「クローゼット、そこだから。オレの荷物少ないから適当に使ってくれ」
アーサーの目線を辿って、ベッド脇にある引き戸を引く。壁の半分を占領しているクローゼットの中には、彼の言った通り、旅行用のボストンバッグと、数枚のシャツとジャケットがハンガーに吊るされているだけだった。
いつの間にか、外はもう暗かった。
大きな窓からは、月の光に反射して光る黒い水面が見える。クローゼットの脇に荷物を降ろしてから、アーサーの立つ窓辺に近寄った。
「外、海なのかい」
「ああ。朝になったら見える。リビングにバルコニーがあって、そこから外に出られるから」
カーテンを閉めながら言うアーサーに「へえ」と一言言ってから、一緒にリビングに戻った。
バルコニーに続く、大きな透明の扉を開く。
ざあっ、という海風が聞こえた。生ぬるい夜風が頬に触れる。
海だ。海の匂いだ。
アメリカの海とは違う。湿気の強い空気も、風の匂いも。べたつく空気を思い切り吸ってから、一度目を瞑って、また開いた。
これが、アジアか。アジアの島か。
「いいな……ずっとごちゃごちゃした所にいたから、嬉しい」
「……何処から来たんだ? お前」
「ニューヨーク。旅は、タイから入っていくつかの国を回って来て、またバンコクからここに」
君は? と尋ね返したら、彼は「ロンドン」と言ってバルコニーの椅子に腰かけた。
ロンドン……イギリスか。
「何処か、回ってきたのかい」
「いや……オレは、ここに来たかったんだ。この島の写真を見て、海を見たくなったから」
アーサーはそう言って、ハーフパンツの中から煙草を出した。
海が好きな人なのかな。わざわざ、こんな遠い島に。
べたつく夜風に額を拭って、俺はぎしぎしする自分の髪の毛に触れて、あ、と小さく声をあげた。
「あの、シャワー浴びてもいいかな。昨日ずっと移動だったから、気持ち悪くて」
自分のずっと着っ放しのシャツを摘まんで言ったら、アーサーは笑って「向こう」と指をさして教えてくれた。
(ついでに、溜まってた洗濯もしてしまおう。カオサンの宿は水もろくに出なかったから……)
バックパックの中から、汚れたシャツやデニム、下着を取り出してバスルームに放る。取りつけられた大きな鏡に自分の裸を映したら、案の定着ていたTシャツの形に日焼けをしていた。
明日、焼き直そう。……直らないと思うけど。
「痛った……」
シャワーのお湯が、強く日焼けした肩に痛い。虫に食われた所も沁みる。それでも久々に浴びる熱いシャワーは気持ちが良くて、大きく息を吐きながら髪を濡らした。
想像はしていたけど、バスルームも広くてゴージャスだった。
正面に大きな窓がついていて、きっとこの目の前は海なんだろう。今は暗くて見辛いけど、曇りガラス越しにぼんやりと白い砂浜が見える。
二人で入っても尚余りそうなバスにはジャグジーまでついていて、ここにカップルで来れば楽しいだろうなと考えた。
レモングラスの香りのするボディソープを手に取って、泡立てる。バスの縁に腰を掛けながら耳を澄ませたら、ここにも波音が聞こえてきた。
何の目的もなく出た旅だったけど、気付けば何故かこんなリゾートで、スイートルームでシャワーを浴びている。今日初めて会った人と。
不思議なものだな。時間は平等な筈なのに、旅をしていると毎日が濃くて、とてもいつもの日常と同じ時間が過ぎていると思えない。
(明日は何をしようかな……)
何の予定もない旅。遊びたければ遊び、疲れたら休む。個人旅行は全て自分で予定を立てられる自由さはあるけど、何をするにも自分で調べて、動かなければいけないという不便さもある。時間も限られていると思うと、あまりのんびり過ごすのも勿体ない。
そんな風に考えていると、何かに追われて旅に来ているような気になってしまう。
どうしてこんなことを考え始めたのかも分からないまま、俺はシャワーコックを捻って身体を流した。
シャワーからタオル一枚のままで出たら、アーサーはバルコニーの椅子に座って、外で何かを飲んでいた。
デニムに履き替えて、俺も洗ったばかりのシャツと下着を持ってそっちに向かう。バルコニーに続くガラスをコンコンとノックして開いたら、アーサーはタンブラーを持ったままで振り向いた。
「星、見えるかい」
「いや……あんまり見えねえんだよな。……何だ? それ。お前」
「洗濯物」
「ここ、クリーニングのサービスあるぞ」
「いいよ。シャワー中に洗えばいいんだし」
まだ水が滴る洗ったばかりの服を絞って言ったら、彼は「変わってる」とでも言いたげな目で俺を見て、その後に少し笑った。
「楽しいか? バックパック旅行って」
「したことないかい? 楽しいよ。体力使うし、不便なことばっかりだけど、自分の足で旅してるって気になれる」
「ふうん……」
ルームサービスでも頼んだんだろうか。アーサーはボンベイサファイア、と書いてあるボトルを傾けて、グラスに注いだ。それ、なんだい、と尋ねたら「ジン」という答えが返ってきた。
「おいしい?」
「普通」
「なんだいそれ」
変な答えだな、と言って俺も笑った。
この島の海には、あまり波がないという。きっとダイビングにはいい所なんだろう。今はぼんやりと白く浮き出ている様な砂浜しか見えないけど。
アーサーがストレートでそれを飲みほしてから、暗い海を見ながら俺に言った。
「……お前、何でこの島に来たんだ?」
「え?」
「こんな時期外れに」
……時期外れなのはお互い様だろ。
思いながら、硬く絞ったシャツをバルコニーの手すりに掛ける。
「何でだろう……海が見たくなって、バンコクで相部屋になった人に勧められたから」
「それだけで?」
「それだけだよ。もともと、行き先も決めてなかったし」
他に洗ったものも干しながら、何となく声をひそめて俺は言った。満室である筈の施設には人の気配は感じられず、外からは波の音と、小さな虫の声しか聞こえない。
カラン、とアーサーの持っているグラスから、氷の鳴る音が聞こえた。
「……旅は? 何で出ようって思ったんだ」
アーサーは相変わらず海から目線を離さない。横目でそれを確認しながら洗濯物を干す手を止めて、小さく言った。
「失恋したから」
傷心旅行ってやつだよ。
止めていた手を動かして、洗った下着をパンッと叩いて皺を伸ばす。アーサーは傾けていたグラスから口を放して、一瞬だけ俺の方に顔を向けた。
その後に、瞳を海に戻して静かに言った。
「……オレも」
振り向かずに、俺は目線だけで彼を見る。
表情なく小さく言うアーサーの手首には、うっすらと赤い傷跡が見えた。
ーーー中略ーーー
「何だこれ。甘い」
俺のグラスからストローを使って一口飲んだアーサーが、眉を顰めて変な顔をした。言ったじゃないか、と言って少し笑う。
「セックスの味だって」
「……こんなに甘くねえだろ」
「そうかなあ」
眉を顰めたままで自分のグラスに口をつける彼を見て、俺も持っている甘いカクテルをもう一口飲んだ。
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