『兄さん、怖いよ、もう帰ろうよ』
『心配すんな、お前は帰れる。いいか、ここから真っ直ぐだ、後ろは振り返んなよ、真っ直ぐ走れ』
『兄さんは?怖いよ、一緒に』
『後から行くから、ほら。お前は強い子だろ』
『兄さん』
『父さんと母さんによろしくな』
『兄さん!』
 
記憶は蘇る。
 
何年も何年も蓋をしていたものが急激に溢れだして、俺は、汗だくの状態で一人のベッドから跳ね起きた。
 
 
 
 
「・・・どうだった?」
「・・・俺の持ってる写真も、同じだった。手を繋いでた俺の手の形は、そのままだったけど」
「いつ、写真が変わったかは覚えてるか?」
「・・・わからない、向こうの生活に慣れてからはあんまり見てなかったから・・・」
 
ごめん、と頭を下げるフェリシアーノに、お前が謝る事じゃないだろうと軽く笑う。
兄が消えた。
いつだったか、気がつけば兄が居なくて、父や母、周りの友人に聞いても、彼の事は誰一人として覚えてはいなかった。
最初は、何か俺を担いでるのかと思って、ふざけるなよ、と俺も笑ってた。
「ギルベルトは?母さん、兄さんの靴が無いんだ」
貴方はずっと一人っ子でしょう。
笑う母親に、俺はこの事態が冗談でもふざけているのでもない事に気がついて、そこで初めて、血の気が下がった。
 
ギルベルト、ギルベルト!兄さん、何処だ、俺だ。出て来てくれ、
 
彼の部屋は違うものとなっていたし、彼に関するものは全て消えていた。
写真、名前、彼にまつわる思い出、持ち物やイニシャル、何もかも。人々の記憶さえ。
彼のよく行く場所は片っぱしから走って、毎日陽が沈むまで姿を探した。
兄の友人、少しでも交流のある人間は、端から端まで、「ギルベルト」と名前を出しても、彼らは首を傾げるだけ。
あんなに彼と仲の良かった友人二人でさえ、「お前、大丈夫か?」と俺を心配そうにのぞき込む始末。彼らとは兄を通じて知り合ったのに。
 
兄さん、どうして?
 
心配そうに俺を見る両親、何かを囁き始める周りの目。
「お兄ちゃんが出来る夢でも見たの?」そう言う母親に、最初は何度も何度も、どうして覚えていないんだ、どうして、どうして。
怒鳴り散らして、彼を探した。
探しても探しても彼は居なくて、手掛かりは何一つなくて、子供の俺の言う事なんて、誰も聞いてくれなかった。
俺は間違ってない、兄さんは居たんだ。
兄は居た、俺と一緒に、だが、いつから居なくなったんだろう。居なくなったと気づいたのはいつだ。
突然だ。突然、気がついたら居なくなってた。いつ、俺は気がついた。
そのうちに、自分の記憶に自信がなくなって、自問自答する日が何日も続いて、兄の居ないまま、あっと言う間に月日が過ぎて。
 
兄は居たんだ。でもいつまで居たのか、覚えてない。
そもそも、最後に兄と話したのはいつだった?何を話した?大事な事なんだ、思い出せ、俺に、兄は居たのか。
 
混乱した状態で、だんだんと俺は兄の事を人に話す事は無くなっていた。
自分もよくわからない、自分が白だと主張している事でも周り全員に黒だと言われれば、いつしかそれが黒にも見えてくる。
誰か俺の兄さんを知らないか。お前に兄弟は居ないだろう。うそだ、兄さんは居るんだ。
存在している証は何もなく、自信はいつしか疑問に変わる。精神はだんだんと疲弊していく。
ギルベルト、貴方は本当に居たんだろうか。
 
これだけは言える。一日たりとも、彼を忘れた事など無かった。
だが、脳裏に描く彼の姿、その姿と記憶は日に日に徐々に、ぼやけていった。
顔は?声は?どんな姿をしていただろう。記憶は薄れ、恐ろしい程早いスピードで消えていく。
それで俺は、夜にベッドに蹲って静かに泣く。忘れたくない。兄さん。
誰にも話す事は出来なくて、相談する相手もいなくて。話した所で、気がふれてると思われるだけだと言う事は嫌と言うほど、身に染みた。
両親も知らない、戸籍にも載っていない架空の兄の存在など、誰が信じてくれるだろう。
しかも内容が「突然消えた」だ。いつかと聞かれても「覚えてない」。
自分でも笑えてくる。でも、兄は、確かに居たのだ。
俺の記憶の中でしかないかもしれないけれども、確かに。絶対。
 
そんな時だった。
昔の幼馴染、国籍は違うけれども仲の良かった友人が、緊急に帰国する話を聞いたのは。
彼はいつも明るくて、いつも輪の中心にいるような、太陽みたいな奴だった。
俺も兄も彼の事が大好きで、小さな頃はよく3人で遊んでいた。
もしかしたら、フェリシアーノなら。覚えているかもしれない。
そう、常々、尋ねてみようとは思っていた。折を見て、何かそういう話にでもなったら、さり気なく。
それでも、彼とあれだけ仲の良かった友人でさえ、両親でさえ、ああなのだ。
小さな頃の記憶だし、ずっと外国に居た彼が覚えているか。どうせ、皆と同じ反応だろう。
自分の中で諦めていたんだ。どうせ、と、そんな自分らしくない感情で。
 
「ギルベルトは?」
 
笑顔で尋ねてくるフェリシアーノに、久々に聞くその名前に、当たり前のように、俺に兄が居た事を前提に話す彼に、
溜まっていた感情全て、涙と共に溢れだした。
 
 
 
 
「・・・いつ写真が変わったかを、思い出したんだ」
「・・・・・・・・?」
「忘れてたんだ。いつから兄さんが居なかったのか。いつ、彼が消えたのか」
「忘れてたって・・・」
「兄さんと最後にした会話や、いつから居なかったのか・・・
 ショックで記憶が飛んでたのかもしれない。気がついたら、居なかったから」
「・・・変じゃない、それ?」
「消える事自体おかしいだろう」
 
学校の帰り道、影を後ろに落としながら二人で歩く。
何があっても朝は来るもので、時間はいつも平等にやってくる。
あの日、顔を真っ青にしたフェリシアーノは、思い出したように「俺も、持ってる写真探してくる」と駆け足で家に戻っていった。
帰り際に、「俺は、覚えてるよ」そう俺に言って、まだ涙の止まっていない俺の左頬に軽くキスをして。
テーブルの上に散乱した参考書、ペンケース、フェリアーノが部屋を出ても、彼がここに居た事を示す物は、そこにある。
それで、確かにさっきまであいつはここに居たのだと、普通は、それが、当たり前なのではないか。
一人きりになった部屋の中で、再度溢れだす涙を、拭いもせずに、白いソファに深く沈む。
このソファだって、兄がいつも座っていたものだ。両親の目を盗んで、黒いマジックで自分の名前を書いていた。
あの落書きは何処へいったんだろう。
昔に何度も何度も疑問に思った事を反芻して、答えの出ない疑問に眉を寄せる。
 
『ギルベルトは?』
 
久しぶりに聞いた、彼の名前。
誰かの口から、俺以外の人間から、久々に彼の名前を聞いた。
うすく瞳を開ける。涙の乗った視界はぼやけてしまって、よく見えない。
 
兄さん、やはり、貴方は居たんだ。
俺の記憶の中でではなく、きちんとこの世界に、存在してた。
フェリシアーノを覚えているか?彼が貴方を覚えていた。
兄さん。
ギルベルト、貴方は今、何処に居るんだ。
もう何年も経ったんだ。貴方の写真すらない、忘れてしまう。どうか、早く戻ってきてくれ。
 
涙を流しながら気がつけばそのまま眠りに落ちていて、深い深い、随分と奥にある記憶の中の夢を見た。
何度か手にしていた携帯電話が鳴っていた。恐らく、フェリシアーノだろう。
半覚醒の状態でぼんやりと思ったが、瞳を開ける事が出来なかった。
 
 
暗くて深い森の中、ぼんやりと橙色の提燈の光に引き寄せられて、俺は、兄に手を引かれて歩いていた。
 
 
『・・・兄さん、やっぱり戻ろう、何だか怖いよ』
『・・・戻ってるんだ、ルツ。さっきから、』
『・・・どういう事?」
『わかんねー。心配すんな、オレが居るから。ちょっと、休憩するか?』
 
薄暗い提燈の明かりの灯る獣道。何処かで祭りでもしているんだろうか、盆踊りのような音楽が聞こえる。
いつものように、八重歯を見せて笑う兄、正直足は痛かったが、こんな状態で足を止めたくなかった。
「兄さんが居るか怖くない」と震える声で言ったら、兄はそっかと笑って、「ルツは強い子だな」と俺の頭を撫でて、歩みを進めた。
 
確か、その日は、近所の山で縁日があって。
仕事で都合のつかなくなった両親に代わって、兄が俺を祭りに連れ出してくれた。
山と言っても小さな森のようなその会場には沢山の屋台が出ていて、初めてこういう場所に来た俺は大層感動して、
兄の手を引っ張って色々な店を巡って、喜んでいた。
橙色の灯篭、沢山の色のついた砂糖菓子、金魚掬いをしている子供や、当時人気のあったアニメのプラモデル。
何故か客は皆、アニメヒーローだとか動物の面をしていたので、俺も欲しいと兄に強請ったが、
兄は「あんまり小遣い貰ってこなかったんだから、よく選べ」と口を尖らせて言った。
 
両親はいつも仕事に忙しくて、俺たち兄弟はあまり彼らに構っては貰えなかった。
父と母が忙しいなら我儘は言うまいと、俺は彼らに遠慮をして自分の要望を言えない子供になっていたし、
兄は両親の代わりに俺の面倒を見なければと、随分と俺を可愛がってくれていた。
それでも、兄は兄で忙しい人だった。友達だって多かった。弟につきっきりと言う訳にもいかなかっただろう。
遊んで欲しいと言えばもちろん傍に居てはくれるが、我儘かもしれないと思うと、それすらも言えない時の方が多かった。
嬉しかったんだと思う。兄が、俺の手を引いて、少し家から離れた祭りに連れて行ってくれたのが。
今だけは兄を独占できる、我儘を言っても、兄は笑って「仕方ねぇな」と頭を撫でて、望みを聞いてくれる。
帰りたくなかった。とても、とても楽しかったから。
だから、兄さんが「そろそろ帰ろうぜ」と言った時に、「まだ帰りたくない」と駄々をこねて、
遠くに見える提燈の明かりの方に走り出したんだ。
 
 
夜市へようこそ。御兄弟。
 
 
入口で蝙蝠が言った。
夜市。
そうだ、夜市だ。
 
『父さんと母さんによろしくな』
 
記憶は蘇る。
 
ばちん!と音が鳴るくらいの勢いで瞳が開いた。
ソファの上での、ほんの何分間の仮眠。背中は汗でびしょ濡れだった。
 
 
 
 
「・・・・・・夜市?」
「まだ断片的になんだが・・・俺と兄さんは8年前にそこに行って、そこから兄は居なくなった」
「はぐれたの?」
「・・・覚えてない。でも、確かにあの日なんだ。兄さんが居なくなったのは」
 
存在というものが、消えたのは。
 
何故忘れてたんだろう、でも今も思い出せない事が沢山ある。
あの日、どうやって俺は帰って来たのか、何故兄が家にいなかったのか。あの遠い提燈の明かりに向かって走って行ったのは覚えてる。
そこから何故か、気がつけば兄が居ない。そこまで大きく記憶は飛ぶ。
翌日ではなかった筈だ。兄が居ない事に気がついたのは。いや、それも俺が忘れているだけか。
そもそも、「夜市」とは、何だ?何故この言葉だけ思い出したんだ。
フェリシアーノに聞いても「闇市みたいなもの?」と頭を捻るだけで、決して聞きなれた名詞ではない。
誰に教えて貰ったの、その言葉。
頭一つ小さな友人の問いに、俺は、「黒い蝙蝠が」とだけ答えて、瞳を瞑った。
 
こうもり、フェリシアーノは夕暮れの太陽を見ながら、ふっと上に視線を上げる。
その後に、「ねぇ、見て。ルーイ」そう言って、俺の学生服のブレザーをちょいちょいと小さく引っ張った。
 
「何だ」
「蝙蝠、すごい一杯いるよ」
「蝙蝠・・・?」
 
夕陽の落ちるオレンジ色の空に、不規則な動作で動き回る、小さくて真っ黒な、不吉な鳥・・・否、蝙蝠。
数えれば10匹以上はいるだろうか。この近くに巣でも、そう眉を顰めてみていたら、その中の一匹が、
俺とフェリシアーノの頭の周りを、くるくるくるくる、旋回し始めた。
 
くるくるくるくる、蝙蝠は回る。
おかしな動きで、ばさばさと羽根を振って、小さな身体を回転させる。
なんだ?
目が話せないままその蝙蝠を二人で見つめる。フェリシアーノも同じく、不思議そうに、不審そうに、眉を軽く顰めている。
くるくる回る蝙蝠は、その後更に旋回して、ばさばさと大きく羽根を広げて、こう言った。
蝙蝠が何かを言う訳は無い。だが、確かに聞こえたのだ。
黒い黒い学校蝙蝠が、俺に向かって、言葉を発したのだ。
 
 
今宵、夜市が開かれる。
学校蝙蝠はそう言った。
 
 
今宵、夜市が開かれる。
 
それだけを残して、蝙蝠は他の仲間たちと一緒に、家から遠く離れた山の方向へ一直線に飛んで行った。