『兄さん、怖いよ』
『泣くな、ルツ。オレが何とかしてやる。だから泣くな』
『一人にしないで』
『大丈夫だ』
 
何の根拠もない「大丈夫」の言葉。それだけで、俺は安心した。
兄さんが言う事はいつもいつも、その通りになった。
大丈夫だ。兄さんが言うのだから、間違いない。きっと大丈夫、大丈夫。
 
あの日も、今日と同じような店が並んでいた。
 
 
 
 
「・・・なんか、うさんくせーものばっかおいてやがるな・・・。おいオヤジ、コレ、本物なんだろうな」
「こんばんは坊や。お金は持ってるかい」
「坊やじゃねーよ。金はもらった小遣いしか持ってない」
「どのくらい?」
「2000円くれーかな」
「とっとと失せな」
 
頭から手の生えてる男が店に立っていた。
何やら兄と話していて、最初はにこにこしていた男は、兄の言葉に突然表情を変えて、
頭から出ている手で兄の首根っこを掴み、放り投げた。
どすん、と尻から落ちる兄。
痛ってぇな、この野郎!
きぃっと牙を剥く兄を止めて、大丈夫かと、兄の身体を助け起こす。
自分よりも頭一つ分大きな兄、自分よりもだいぶ大きな手を握って、再度「大丈夫」と聞いたら、彼は「おう」と笑って、歯を見せた。
 
一体、ここは何なんだろう。
お面を被った通行人、年代は様々。大人も居れば、俺たちみたいな子供もいる。
だが、子供は皆大人と一緒に歩いていた。俺たちのように子供だけでいる連中は、ざっと見た限りでは一人も居なかった。
橙色の淡い提燈、何処かで聞こえるのは神輿の掛け声だろうか。神社でもあるのかな。
ピィー、と時々笛の鳴る音が聞こえて、何処から聞こえるんだろうと辺りを見る。
それらしきものは何もなくて、神輿や太鼓の音も、聞こえるけれどもどんなに歩いても、音が近く鳴ったり遠く鳴ったりする事はなかった。
上を見上げれば、星も無かった。月も、雲も、何も。ただ、墨を落とした様な真っ暗な空が広がるだけだった。
どきん、どきん、と心臓はだんだんと煩くなる。
いつの間にこんな所へ。早く、家に帰りたい。
場所が分からないという不安、屋台に立っている得体のしれない人たちも怖かった。
何かの仮装だろうか、小さい頃兄に呼んでもらった絵本に出てくるおばけのように見える。
聞こえてくる言葉は、俺たちと同じ。形だけが違う、でも、売っているものも、なんだかおかしい。
食べ物、動物、何かの標本、綺麗な石。一瞬、人の首のようなものも目に入って、まさか、人形だろうと思って目を反らした。
屋台は延々とずっと、ずぅっと続いていて、並んでいる店は一体いくつあるんだろう。
後ろを振り返っても道は同じ。一体自分は何処から入ってきたのか、それすらもわからない。
 
兄さん、怖いよ。戻ろう。
そう、ぎゅっと兄の手を握ったら、兄は小さな声で「戻ってるんだ」と呟いた。
 
「・・・え?」
「戻ってるんだ、さっきから。おかしい、道は一本だった筈なのに」
「な、なんで」
「わかんねー。だいたい、お前を追ってた時間なんて5分くらいだ。何で一時間経ってもあの道に出られねぇんだ」
 
ぬかるむ地面。
誕生日に買ってもらったシューズが泥に汚れる。
ちっ、と軽く舌打ちする兄に、一瞬にして血の気が降りた。
兄さんも、わからないんだ。
俺を怖がらせるための嘘じゃない。俺の手を握る力は強いし、いつも俺の歩幅に合わせてくれる足取りは普段よりも少し早い。
どきん、どきん、どきんどきんどきん、胸を叩く音は早くなる。
遠くを見てもずっとずっと続く、不気味な提燈。道は、何処まで続くんだろう。
道行く人は笑ったお面をつけたまま、表情の読めない通行人は俺たちを一瞥して素通りする。
時折声を掛けてくる屋台に立つお化け。
こんばんは、坊やたち。お金は持ってるかい。
 
「これはルツに何か買ってやる為の金だ。おい、ここの出口は何処だ、オッサン」
「出口?出口ときたね」
「何だよ、笑うな!どっちだよ?」
「これを買ったら教えてあげるよ」
「ふざけんな」
 
チッ、と舌打ちして屋台の足を軽く蹴る兄。
行くぞ、そう言って俺の手を引いた時に、屋台の後ろから小さな男の子の声が聞こえた。
 
「買わなければ、出れませんよ」
 
黒ぶちの眼鏡をかけた、育ちの良さそうな少年。歳の頃は兄と同じくらいだろうか。
紫色の瞳をしぱりとまた瞬かせて、彼はもう一度兄に言った。
 
「買わなければ、出口には行けません」
「なんだ、てめー。あのオッサンのまわしもんか」
「いいえ。貴方、お面もつけてないお馬鹿さんだから知らないのでしょう。買い物をしないとここからは出られませんよ」
「なんだそれ」
「悪い事は言いません。早く何かを買って、ここから出なさい。何でもいい、貴方の持っているお金で買えるものを」
「持ってねーよ、ちょっとしか」
「出られなくなりますよ」
「ずっと歩いてれば何処かに繋がんだろ。行くぞ、ルツ」
「兄さん」
「折角ご忠告差し上げたのに。このお馬鹿さんが」
 
黒ぶちの眼鏡の男の子は、そう言って形のいい眉を少し顰めて、その後に「幸運を」と一言残して、すっと消えた。
思わず、二人で息を飲んだ。
消えた。
目の前で、人が一人、消えたのだ。何の痕跡も残さず、一瞬で。
慌てて兄さんがその場に行って、おい!と大きく叫んでも、消えた男の子は出てこなかった。
傍で見ていた店の店主は「あいつの買い物は終わったんだよ」と、顔を青くする兄に向って、大きく笑った。
 
 
 
 
歩いても歩いても、歩いても、店はなくならなかった。
そろそろ日の出る時間だろうか、明るくなれば、少し地形が分かるかもしれない。
散々歩きつかれた兄もそう思っていた様で、着ていたパーカーの裾を捲って時計を確認して、
「あと少しで日の出だ」と、俺に向かって笑って言った。
何時?聞けば「そろそろ5時」。
・・・・・・・5時?俺は眉を顰める。5時なら太陽はまだ顔を出さなくても、真っ黒な空は多少白んでくるのではないか。
相変わらずの、星ひとつ、光一つ見えない真っ黒な空。先ほどから、慣れ過ぎてBGMとなってしまったお囃子の音も途切れる事は無い。
気にはなったが、何も言わなかった。
口にするのが、怖かった。
 
 
 
 
その後、5時を過ぎても、6時を過ぎても、空は明るくならなかったし、どんなに歩いても道が変化する事はなかった。
歩いても歩いても縁日は続く。
人通りも変化する事は無い。まるで、繋がった一枚の絵の中をぐるぐると回っているようだった。
 
「・・・ここ、さっきも通ったか?」
「わからない、でも、見た気がする」
「ずっと一本道なんだ、戻ってくる筈ねぇ、よ、な・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・」
 
兄は顔を顰めて、がりがりと金色の頭を掻いて、舌打ちする。
兄さんが苛立ってる、俺の前で。これは、本当に危ないのかもしれない。
俺の前では、こういう風にあからさまに動揺したり、不機嫌になったりする事は滅多にない。
機嫌の悪い時はこうして焦りや不機嫌さを顔に出すが、こんな風に、本気で苛立っている彼を見たのは初めてだった。
余裕が無いのかもしれない。言うなれば、余裕を持てる状況じゃないのか。
焦りや恐怖は、伝染する。
兄の露わな感情に、俺はついに泣き出した。
 
「ルツ」
「ごめんなさい、俺が、勝手に走ってしまったから、俺がこんな所に来なければ」
「・・・ルツ、いいよ、」
「ごめんなさい、兄さん」
「いいって、ごめんな。大丈夫だから」
 
元はと言えば、兄の制止の声も聞かずに足を止めなかった自分が悪いのだ。
気がつけばこんな気味の悪い祭りの中に居て、出口も分からず、朝も来ない。
悪い夢を見てるのかもしれない、兄と一緒に、同じ夢を。
ずずっ、と鼻を鳴らして兄を見上げたら、兄は金色の眉毛を困ったように顰めて、俺の、彼と同じ色の髪の毛をぐしゃぐしゃと小さくかき混ぜた。
 
 
「こんばんは。いい夜だね」
 
 
その時。
後ろから、笑う、男の声が聞こえた。