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声が出なかった。 |
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兄さんを売ったんだ。 |
喉を震わせて、涙を落とすルーイ。大きな肩が震えていて、何と言えばいいのか、わからなかった。 |
10年間、ずっとずっとギルベルトを探していたルーイ。 |
誰も覚えていない彼の名前を頼りに、ひたすらに、ずっとずっと、彼の事だけを、記憶を頼りにここまで来たのに。 |
蘇ったギルベルトに関する記憶は、酷く残酷なものだった。 |
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狐の男は、可笑しそうにりん、りん、と鈴の音を鳴らして笑う。 |
綺麗な声だけど、頭に響く。 |
止めてよ、何も可笑しくなんてない。そう静かに伝えたら、男は「おや」と俺の方を見て、黒い瞳を細くした。 |
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「美しい、兄弟愛ではないですか。貴方がお兄さんを売ったのではなく、お兄さんが自ら進んで行ったのでしょう」 |
「俺は、頷いたんだ。あの時、どうしてもっときちんと、兄と話し合わなかったんだ、俺は、兄さんを売ってまで、外になんか」 |
「お兄さんを売ったお金で、貴方は何を買ったんです」 |
「兄の記憶を」 |
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ははぁ、と狐の男の眉が上がる。 |
だから、外の世界へ出ても、貴方だけお兄さんの事を忘れていなかったんですね。 |
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「人買いに売られた人間の存在は、外界の者の記憶から抹消されます。まるで、最初から居ない者のように。 |
記憶が抜けていたのも、恐らくお兄さんを売った値段では不完全な記憶しか買えなかったのでしょう」 |
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ころころと転がる鈴のよう。 |
遠くから聞こえる囃子の音と混じって、何て幻想的な空間だろう。 |
幻想的、それは恐ろしくリアリティの無い作りものの世界。 |
この狐面の男は、何故こんなにもこの世界の事を知っているんだろうか。 |
二人の会話を聞きながら、俺は震えるルーイの手を握りしめる。 |
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「人買いは、夜市に居るの」 |
「居ますよ。私は好きでないので早く消えて頂きたいのですが」 |
「貴方は、よくこの祭りには来るんですか」 |
「ええ。欲しいものがある時には」 |
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初めてここに来る人間は滅多にはいません。入口も、毎回ばらばらに開きます。 |
幼い頃の貴方達二人がどうして迷い込んでしまったのか、そこは不運としか言えませんけれども。 |
小さい頃の貴方は、帰りたくないと願って、お兄さんの興味を引く為に走っていた。 |
だから、帰れない場所に来てしまったのかもしれませんね。 |
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不思議な声で話す男に、俺は「やめてよ」と話を制して、止めさせる。 |
今、そんな事を言っても仕方が無い。昔の彼を責める様な事は言わないで欲しい。 |
俺たちは、ギルベルトを探すためにここに来たんだ。思い出したのなら、それが手掛かりだ。 |
ルーイ、名前を呼んで、制服のニットの袖で、青い瞳から流れる涙を拭う。 |
提燈の明かりを吸いこんで光る、深い青の色。ギルベルトの瞳と同じ色だ。 |
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「人買いの店を探そう、まだ、居るかもしれない」 |
「どうでしょうね。なんせもう8年も前でしょう。通常であればもうとっくに買われていますよ」 |
「買われた人間はどうなるの?」 |
「さまざまです。使用人が欲しい客もいれば、子供が欲しい客もいます。 |
ただ、人間をお金で買う様な人たちがまともな神経をしているとは、私は思いませんが」 |
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冷たくなった大きな手が、びくりと強張る。ああ、聞かなければよかった。 |
大丈夫だよと言い聞かせるように握り返して、取り合えず行ってみようと、強張る背中に語りかける。 |
いつも、俺はルーイに甘えっぱなしだけど、今は俺が支えなきゃ。 |
狐の男の、「口だと伝えにくいので、一緒に行きましょうか」という申し出を、やんわりと手を振って辞退する。 |
悪い人ではない、恐らく、本気で心配をしてくれてるのだろうけど、きっとルーイと二人の方がいい。 |
そうですか、と小さく笑う男にお礼を言って、教えて貰った道をメモに書いて、「行こう」とルーイの手を引いて、促す。 |
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「良い結果になる事を、祈っていますよ」 |
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そう笑う男の本心は、狐の面を被り直してしまった為に見えなかった。 |
耳のあたりまで裂けた口で笑う狐のお面。目は細く弧を描いていて、黒い着物は闇にすぅっと溶けるように見えなくなって。 |
暗い中にぼんやりと笑った狐の面だけが浮かぶように見えて、りぃん、と鈴の音が聞こえた時に、後ろがぞくりと、涼しくなった。 |
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※ |
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「大丈夫だよ、きっと居るよ」 |
「・・・兄さんの顔を、覚えていないんだ」 |
「俺が覚えてる。きっとわかるよ」 |
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そうえいば、どうして俺はギルベルトの事を覚えているんだろう。 |
彼は、ギルベルトを売ったお金で、ギルベルトに関する記憶を『買い物』して、夜市を抜けた。 |
何てばかばかしい取引だろう。人とお金を取引するなんて、絶対に、あっちゃだめだ。そんな事。 |
幼いギルベルトとルーイに、何て残酷な選択をさせるのかと、その人買いの男に、腹が立った。 |
貴方達も、何か『買い物』をしなければここから出られませんよ。 |
狐の男は言っていた。でもまずは、ギルベルトを探さなければ。 |
もしギルベルトが居なかったら?・・・・・・恐らくそちらの可能性の方が高いだろう。 |
それでも、行ってみなければ。そこが、ルーイとギルベルトが離れた最後の場所なのだから。 |
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※ |
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少しだけぬかるんだ足元、暗いからよく見て無かったけれど、足元に生えてる草はどれも見たことの無い植物だった。 |
赤や黄色、オレンジ、花がついていないのにやけに発色の良い背の低い植物。 |
毒がありそうだ。ルートの手を引いて、屋台に挟まれた一本道を歩く。 |
相変わらずおかしな姿をした店主たち、おかしなものばかり売ってると思えば、普通に夜店で売っているものもある。 |
綿菓子だとか、ビー玉だとか、それこそ流行のプラモデルだとか。やっぱり何処か変だけど。 |
射的は実弾だし、金魚掬いだと思った水槽に泳いでいるものは人間の顔がついているし、 |
前述した綿菓子にもおかしな原材料の名前が書いてある。 |
ビー玉だと思っていたものはキラキラした、何かの生き物の瞳だった。 |
作り物だろうか。 |
目玉だけのものと目が合うのもおかしな話だけど、黒目の部分だけが動いて一斉にこちらを見た時には、思わず腰が抜けそうになった。 |
ギルベルト。 |
もしも居るなら、君はこんな所に、10年も? |
震える膝を叱咤しながら、狐の男に聞いた店を探す。 |
目印は大きな堤燈が3つ。棺桶を売っている店があります。 |
その店の、裏手。普通に歩いていたら見逃します。 |
見逃した時は戻っても構いませんが、屋台の位置が変わる時があるので気をつけて下さい。 |
屋台の位置が変わるって。何て想像を逸した場所だろう。 |
夢を見ているのだとしたら、一体何処からが夢なのか。 |
賑やかな祭りの雑踏の中、俺たちだけが浮いてる気がする。 |
面を付けた人たちは店の店主と同じくらいに気味が悪い。 |
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「フェリシアーノ」 |
「うん」 |
「兄さんは・・・俺の事が、わかるだろうか」 |
「二人だけの兄弟でしょ?大丈夫だよ」 |
「もう売られていたら」 |
「その時、考えよう」 |
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そっちの確立のほうが高いんだ。 |
どきどきと上がっていく心臓の鼓動を聞かない振りして、人の流れに逆らうように歩く、歩く。 |
何か不安になっている時は、考え込んではいけない。悪く考えれば、悪い方にばかり事は進む。 |
考える暇があったら動け、それは、幼い頃にギルベルトが俺とルーイに教えてくれた事だ。 |
途切れる事なく続く夜店。3つの大きな堤燈、その、裏。 |
一際目立つ赤い光、数は3つ、店先に出ているものは・・・取り取りの色をした、サイズ違いの棺桶。 |
赤、青、緑。とても棺桶に見えないその木箱がそれだと思ったのは、中に人が入っていたからだ。 |
普通ならば人形だと思うものを人だと思ったのは、きっと短い時間で、この夜市という空間に慣れてしまったからだと思う。 |
この夜店には、死人も来るんだろうか・・・わざわざここまで棺桶を探しにくるなんて、一体どんな人だろう。 |
なるべく店の店主と目を合わさないように、裏口を覗こうと視線をやったら、突然、後ろから声を掛けられた。 |
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「こんばんは。いい夜だね」 |
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冷たい、冷たい、男の声。 |
ぴん、と周りの空気が凍る。 |
声色は優しい、でも、何故だかひどく恐ろしい。 |
左耳から聞こえる男の声に、繋いでいるルーイの手が、ぎくんと一瞬強張った。 |
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※ |
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「こんばんは。いい夜だね」 |
「・・・こんばんは」 |
「お面をつけて居ないね。ここは初めてなのかな?」 |
「俺は初めてだけど、彼が」 |
「そう。こんばんは」 |
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にこりと笑うのは、棺桶屋から一本奥に入った道にぽつりと立っている夜店の店主。 |
白い肌に白い髪、真っ白な服を着た彼は夜の中にぼうっと浮いた、幽霊の様。 |
決して冷たい笑みではないのに、背筋がぞわぞわ気持ち悪い。嫌な悪い笑い方をする。 |
暗闇に光る瞳が細くなって、その瞳は、俺の隣にいるルーイに向けられた。 |
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「こんばんは」 |
「・・・・・・・・・・・・・・・・」 |
「・・・随分大きくなったね。震えてるけど、大丈夫?」 |
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ルートヴィヒ。 |
男が、そう、ルーイの名前を呼んで笑った時に、ぞわっと背中が粟立った。ああ、この人だ、予感は確信に変わる。 |
ルーイの額から脂汗がにじみ出る。握っている右手はじとりと湿って、軽く震える。 |
ルーイ、名前を呼んで、俺は彼の手を引いて、暗い夜の中で光る店に、足を進めた。 |
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「10年前に売った、彼のお兄さんはまだ居ますか」 |
「10年前?もうそんなにたったかなぁ」 |
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にこにこ笑う、白い男。視線はルーイと俺を行ったり来たり。 |
人を買ったり売ったりするのが商売の人だ、人をこうして値踏みするような癖がついているのだろうか。 |
嫌だな。知らぬうちに嫌悪感が溢れだす。 |
もう一度、「以前買った子供は、何処にいるんですか」と聞いたら、彼は「売った人間がどうなるかなんて、僕も知らないよ」と笑った。 |
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「だいたい、僕が買った人間ていうのは半年そこらで売れちゃうから。中には売れ残る子もいるけど・・・」 |
「今売っている人を、見せてもらえませんか」 |
「『買い物』をするの?ここで」 |
「探している人がいれば」 |
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ルーイの手が、どんどんと冷えていく。 |
自分の兄を、仕方が無い状況とはいえ、彼は『売る』という選択肢に頷いたんだ。 |
ギルベルトが守ってくれたけど、あの時に店先に並ばなければならなかったのは、ルーイだったかもしれない。 |
行こう、と彼の手を握り直して、人買いの背中に爪先を向ける。 |
白く塗られた鉄製の扉、大き南京鍵をかちりと外して、男は「どうぞ」と俺たちに向かって笑い掛ける。 |
中は酷く寒い。 |
冷凍室の様な温度に、まさかこんな所に人が、と眉を顰めて部屋に入った。 |
そこで、俺とルーイは信じられない様な光景を目にする。 |
俺たちは人間で、物でも、愛玩動物でも無い筈だ。ずらりと並ぶ小さなゲージを見て、愕然とした。 |
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小さな小さな檻のようなものに、人が入れられている。手足を伸ばす事は出来ない。 |
ペットショップで売られている動物のように、動物園の、観賞用のもののように。 |
首には値札と一緒になっている何重にも巻かれた太い首輪、足枷、じゃらりと重そうな、銀色の鎖。 |
中に入っている人間は皆目が虚ろで、長い間日光に当たっていない、痩せた病人のようだった。 |
まさか、こんな。 |
数えで、ざっと20〜30人くらいだろうか。この数が多いのか少ないのか、俺にはわからない。 |
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『売られた人間は、住んでいる世界で存在を消されます。まるで、元からそんな人間など居なかったかのように』 |
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狐の男が言っていた言葉を思い出して、すっと頭から血が降りた。 |
ギルベルトのように、忘れ去られてしまった人たちが、こんなに居るんだ。 |
彼の場合は、俺とルーイが覚えていたけど、この、他の人たちは。 |
人を売るには、売る人間との取引が必要だと言っていた。 |
売る人間の承諾がなければ、この白い人買いだって、人を買う事は出来ない。 |
誰に、どんな経緯で、この人たちは一緒に居る人に売られたんだろう。 |
かちかちと奥歯が鳴り出して、今はそんな事を考えている場合じゃないと、ルーイの手を握り直して、 |
人間が檻に入れられている、不気味に狭い通路をゆっくり歩いた。 |
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彼らは俺達と目が合うと、期待に満ちた瞳で目を合わせてきたり、逆に、怯えてじゃらじゃらと鎖を鳴らしながら隅に逃げてしまったり、 |
とにかく、尋常な人間の様子ではない態度で俺たちを見る。 |
ルーイとギルベルトが離れたのは8年前。8年経ったギルベルトを、俺は見つけられる事ができるだろうか。 |
さっきは大丈夫、とルーイに言ったけれども、ギルベルトの特徴と言ったら、ルーイと同じ青い瞳と、金色の髪の毛だけだ。 |
特に目立った黒子だの、傷だの、そういったものは見た事が無い。 |
金髪で碧眼、一人一人、目を反らしたくなる様な状況で確認しながら見て行ったけど、残念ながら、特徴に合う人は、 |
その中に一人も居なかった。 |
ああ、と思う。 |
失望と、絶望と、やっぱり、という予測していた感情。 |
ギルベルトは居なかった。 |
もう、他の人に、買われてしまったんだろう。 |
どうしよう。頭からすごい勢いで血が下がって行く。 |
どうして、こんな事に。彼は何処へ行ってしまったんだろう。 |
人買いに聞いても答えは同じ。「僕も仕事だから」と笑う白い男の顔が、心底歪んで見えた。 |
ルーイは何も言わない。 |
もう一度ぐるりと暗い通路を見渡して、視線を落とす。 |
何も言わないルーイの手を握り直して、何と声を掛けていいかわからずに下を向いていたら、頭上から、ルーイの震える声が聞こえた。 |
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「・・・・・・兄さん」 |
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・・・・・・? |
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兄さん、ルーイは再度ギルベルトの名前を呼んで、俺の手を解いて、走っていく。 |
向かうのは、今通ってきた狭い通路。もう確認した場所だ。あの檻の中に、ギルベルトは居なかった。 |
「ルーイ!」俺も名前を呼んで、彼の後を慌てて追う。 |
俺の後ろには、白い白い、人買いの男が相変わらず、感情の読めない笑顔で笑っていた。 |
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