俺は、小さなギルベルトの手を引いて、暗い夜道をゆっくりと歩く。
小さな子供の歩幅に合わせるというのは思った以上に難儀で、それを彼も感じているんだろう、必死に俺に歩幅を合わせて、大股で歩く。
ごめんね、と繋いだ手を握って笑ったら、彼は赤い瞳で俺を見上げて、ふるふると小さく頭を振った。
 
「……休む?」
「………………」
 
彼と手を繋いで歩いてからそろそろ一時間。何度聞いても、彼は黙って首を横に振るだけだ。
疲れているだろうに。抱き上げてあげようとしたら、とても嫌がられてしまったので、こうして二人で歩いている。
ルーイの契約と同時に開放された彼の体は、予想以上に弱ってて、始めのうちは歩く事さえ出来なかった。
何度も躓いて、転んで、その度に手を貸して、それでもギルベルトは無言で立ち上がって、ひょこひょこと俺の後ろを着いて来る。
開放されてから、ギルベルトは大きな赤い瞳で人買いを睨んだだけで、それ以上は何もしなかった。
涙を止めて、声の出ない口を開いて、ひゅうひゅう鳴る喉を押さえて、俺に向かって何か言う。
何を言ってるのかは分からなかった。彼は俺の手を引いて、すぐに人買いの店を離れたがった。
笑う人買いと、冷たくなった弟に一瞥する事無く、足早に。
 
俺とギルベルトは、特に会話もしなかった。彼が話せないと言う事もあるかもしれないが、特に、話すことがなかった。
色々聞きたい事があるのに、どれもこれも、聞いてはならない様な事で、言葉が見つからない。
真っ暗な道を、ひたすら歩く。
お面を被ってる人達の群れを抜けて、真っ暗な獣道をただひたすらに。背丈までありそうな草を掻き分けて、一歩ずつ。
ここを真っ直ぐ行けば出口だと、あの人買いの男は言った。
本当だろうか。不安になるほどに道は暗く、歩いても歩いても、後ろに見える夜市の燈篭は遠くならない。
何とか笑って、一緒に居るギルベルトを不安にさせないように、わざと明るい声を出した。
 
「大丈夫だよ、ギルベルト。もうすぐきっと出口だ、そんな気がするんだ」
「……………………」
「帰ったら、すぐにお金を用意して、ルーイを買い戻しに来よう。きっとまだ、売れ残ってるよ。ルーイのことだから」
 
無理やり笑顔を作ろうとして、両側の頬に力を入れる。
変な笑顔になってなければいい。
笑っていなければ、歩けなくなりそうだ。これは夢じゃない。現実だ。ちゃんと、前を見て歩け、フェリシアーノ。
ギルベルトを、連れて帰るんだ。
歩いても歩いても出口は見えなくて、空は、墨を落としたように真っ黒で。
不安にならない訳が無い。手を、そう言って、ギルベルトの小さな手をぎゅっと握った。
何処までも続くと思っていた橙色の灯篭や、耳に残る囃子や太鼓の音はもう消えている。
周りにあるのは、ただの闇。
ニメートル程先しか見えない真っ暗な道。
この道で本当に合ってるんだろうか。引き返そうと後ろを見れば、遠くに、祭りの光が見えた。
夜市。暗闇の恐怖に負けて、足が後ろへ向かいそうになってしまう。あの光がどんな恐ろしいものだとは分かっていても。
 
ルーイ。置いて行きたくなんて無い。こんな暗い闇の中、奇妙な祭りの中に、一人にしたくなんてない。
疲れと精神的疲労、思考能力は低下する。止まりそうになる足を叱咤して、一歩ずつ、歩く。
頑張れ。ギルベルトは、ずっとこんな所に居たんだ。頼りにしていたルーイは、ここには居ない。
俺が、ギルベルトを守るんだ。
後ろを振り向けば、暗闇の中で光る真っ赤な瞳。
一瞬、背中が寒くなった。。
 
「ご、ごめんね。俺、早かったよね。疲れた?ギルベルト」
「…………………………」
「……なかなか、出口が見えないね。少し休もうか」
 
彼は首を横に振る。
そして、背伸びをして、俺の着ている制服の裾を引っ張った。
なに?小さな子供の様な彼の仕草に、少し笑って、しゃがみ込む。
足を曲げてみたら思ってた以上に疲れていたようで、そのままぺたりと膝をついてしまった。
 
「……………………」
 
暗い暗い森の中、ギルベルトの赤い瞳がしぱりと瞬いた。
薄い、小さな唇が動く。声は聞こえない、細い音が、空気を揺らす。
口の形が、俺の名前を作った。
フェリシアーノ。
彼は俺の名前を呼ぶ。
俺も、彼の名前を呼び返す。
爛々と光る赤い瞳は、少し怖い。外の世界に出たら、元の青い瞳に戻るのかな。
歩きつかれてじんじんと傷む足を庇って、少しだけ脹脛を擦ったら、ギルベルトは軽く深呼吸をして、
声がひっくり返らないように、小さな小さな声で、俺の耳元で話し始めた。
空気を震わせるだけの、高く儚い、虫の声。
口もとまで耳を寄せて、それに意識を集中したら、かすかにだけど、何を話したいのかが聞こえてきた。
 
「なに?」
 
俺は出来る限り彼に身体を寄せて、目を瞑る。
ギルベルトはゆっくり、何度も息を吸って、一生懸命に言葉を作った。
 
――オレ様、戻る。悪いな、折角、来てくれたのに。
「えっ?」
――有難う、来てくれて、すげぇ嬉しかった。
 
驚いて顔を離して、彼の赤い瞳と目を合わせる。
にっ、と昔よく見た八重歯を出して、幼いギルベルトは笑って俺の頭をかしかし撫でた。
 
「ギルベルト」
 
足を後ろに引いて笑うギルベルト。
手を伸ばして細い腕を掴もうと思ったら、その手はゆっくりと払われた。
 
――ルツをここまで連れてきてくれて、有難う。ずっと、寂しかったんだ。
――でも、あいつ、オレの弟だし。あんな場所に、一人でなんて、置いておけない。
――巻き込んでごめんな。でも、ほんとに嬉しかった。
 
笑って、小さな唇で俺の頬にキスをして、彼は一歩、一歩、ゆっくりと後ろに下がる。
白い髪が、暗闇にどんどん溶けていく。
瞳を細めて笑う顔は、昔の、無邪気で勝気なギルベルトのままだった。
 
「ギルベルト、駄目だよ、ギルベルト!」
 
俺は追いかけようと、足を踏み出す。
不思議と足は動かなくて、俺は彼を追いかけることが出来ない。動け、動け。もがいても身体は固まったままだ。
道が、消えてる。ギルベルトはぼんやりとオレンジ色の提燈の灯る祭りの方へ赤い瞳を向けると、裏返った声で、俺に向かって高く叫んだ。
 
――あと、オレの事を覚えていてくれて、有難う。
――ルツが、願ったのかな。オレの事を忘れないように。あいつ、本当に寂しがりやだから。
――真っ直ぐ行ったら出口だ。出たと同時に、今度こそオレとルツの事は忘れるから。
 
小さな身体は、踵を向けて走り出す。
俺は何度も何度も名前を呼んで、叫ぶ。
駄目だ、戻ってきて、ギルベルト。ギルベルト!
泣いて叫んでも、彼はひょこひょことびっこを引き摺りながら、足を止めようとはしなかった。
幼い頃に、ルーイと追いかけた大きな背中。ああ、彼は、彼の背中は、あんなに小さかったんだ。
どんどんと小さくなる、遠くなる細い背中に、俺は泣きながら名前を呼んで、手を伸ばす。
戻って、戻って。ギルベルト。俺は、ギルベルトもルーイも、忘れたくなんてない。
最後に、橙色の提燈の中に溶け込むように身体が消えそうになった時に、こちらを振り向いて、大きく手を振るのが見えた。
 
―――有難う。
 
彼の姿が見えなくなったと同時に、ぼんやりと遠くに見えていた祭りの明かりが、一斉に落ちる。
ぱちん、と音が鳴った様だった。ブレーカーの主電源を落とした様に、祭りは瞬時に消え失せた。
あたりを包むのは黒。ただの暗闇。まるで、そこには最初から何もなかったのように。
彼を迎え入れて、夜市は閉じた。
ギルベルト。
俺は真っ暗な闇の中、ただ愕然と膝を折って、涙を落としながら、彼の消えた道を眺めていた。
 
 
 
 
そして眠りこれは夢の一部となる。
 
 
『ルツ!フェリちゃん行っちまうぞ。いつまでも泣いてんじゃねーよ、また会えるだろーが!』
『ギルベルト、またね、元気でね。ルーイも。俺、絶対に二人の事忘れないから』
『……………………』
『おう、またな!こっちに戻ってくる事あったら、遊びに来いよ』
『…………元気で、フェリシアーノ』
『うん。有難う。またね、絶対に、また会おうね』
 
約束だよ。
 
 
やがて夢は現実にとすりかわる。
 
 
 
 
顔に落ちる水滴で、目を醒ました。
ぱかりと瞳を開けたら、眩しいくらいの太陽が斜めに昇っていた。
瞬きをする。ゆっくりと瞳孔を右と左に向けて、それから、青い青い空を見る。
上から、ぽつぽつと雨が降っていた。お天気雨。眩しい。
雨に便乗して、俺は静かに、涙を流す。
気が付いた時には、山の芝生をベッドにして、俺は制服のまま大の字になって、倒れていた。
 
俺はどうして泣いているんだろう。ここは、一体何処だろう。
ひどく懐かしい夢を見た気がする。
小さい頃の俺は友達と離れて海外に引っ越すのが嫌で、最後までむずがって、泣いて、見送りに来てくれた友達の手をずっと握ってた。
友達の名前は、何だっただろう。覚えていない。顔も、声も。でも、思い出そうとすると涙が出てきて、止まらない。
 
「……なんだろう、これ」
 
へんなの。
すん、と鼻を鳴らして、目を瞑る。
明るい空は、瞼を閉じても眩しい。フェリシアーノ。名前を呼んでくれた人は二人居た気がする。
誰だったけ……瞼の裏で、ぼんやりと思っていたら、右手に何かくしゃりとした紙きれのようなものを握っている事に気がついた。
少し厚めの光沢紙……写真?涙の止まらない目を薄く開けて、顔の前でそれを広げる。
随分と、昔の写真だった。
小さな俺が写ってる……まだこの国にいるから、引っ越す前の写真だろうか。
写真の真中で、両手を広げて、嬉しそうに笑ってる。
右手、左手、その手は何でだか空を掴んでいる様に、握られてて。
どうしてこんなポーズを取っているんだろう。おかしいの。そう、一人で笑ったら、何でか知らないけど、泣けてきた。
 
帰ろう。ここが何処だかはわからないけど、歩こう。歩いてるうちに、何かを思い出せるかもしれない。
ゆっくりと上体を起こして、放り投げられてある学生鞄を握って、立ちあがる。
鞄の中に入りっぱなしの携帯電話がピカピカと光ってて、折りたたみ式のそれをぱかりと開けたら、着信履歴が全て兄で埋まってた。
一番新しい履歴は、20分前。30分置きに、連絡が入ってる。留守録も、一杯だ。
兄ちゃんてば。思わず一人で笑って、着信履歴のボタンをぴぴっと押す。
ぷる、る。呼び出し音が二回鳴った後に、すぐに「フェリシアーノ!」という、兄ちゃんの怒鳴り声が耳を劈いた。
 
『もしもし、もしもし!?フェリシアーノ!』
「にいちゃーん。声大きいよ」
『にいちゃんじゃねーよこのどちくしょー!突然誰かの家に泊まりに来るって電話切りやがって、その後電話も出ねーしよ!心配させんなバカヤローが!』
「えーごめんね。俺、誰の家に泊まりに行くって言ってた?」
『しらねーよ、さっさと帰って来い!』
 
きぃん!と電話越しに聞こえるのは、自分の兄の怒鳴り声。
わお、と耳を離して、くすくす笑う。
一人帰国した自分を心配してたまに遊びに来てくれる兄。笑いながら、俺は携帯電話を持ち直して、歩き出した。
右手に鞄、一緒に、さっき見つけた写真を持って。
兄ちゃんならわかるかな。家に帰ったら、聞いてみよう。
話したい事とか、聞きたい事が一杯あるんだ。そう電話越しに言ったら、兄ちゃんは「お前が帰ってきたらオレは寝るぞ」と、大きな欠伸を一つした。
 
「兄ちゃん、もしかして寝てないの?」
『電話通じねーから、あちこち走り回っちまっただろーがバカヤロー……』
「ごめんなさい」
『二人っきりの兄弟なんだから、心配させんな畜生が』
「うん」
『飯、用意してるから早く帰って来い』
「はぁい」
 
返事をして、俺は随分と汚れているローファーを履きなおす。
制服がべしょべしょだ。足も、すごく疲れてる。一体なんでこんな所に一人で居るのかわかんないけど、それよりも早く帰って、兄ちゃんに謝ろう。
心配かけて、ごめんなさいって。
あと、そうだ。なかなか言えないから、言っておこう。
「じゃぁな。また家で」、そう電話を切ろうとする兄ちゃんに、待って、と呼びかけて、俺は電話越しに笑って言った。
 
「俺、兄ちゃんの事大好きだよ」
 
「突然、何だよ」、と電話の向こうで眉を寄せてる兄ちゃんを想像しながら、俺は「言いたくなっただけ」と笑って言った。
何だか変な夢を見ていた気がするんだ。ご飯食べながら、聞いてね。
懐かしくて、でも何だか哀しくて、思い出そうとすると、切なくなる。大事な事のようなのに、思い出せない。
俺は電話を切って、さっき握ってた写真を丁寧に伸ばして、空にかざす。
笑ってる俺は、一体誰に向かって笑ってるんだろう。空を掴んだ両手は、何を掴みたがってたんだろう。
きっと、とても楽しかったんだんじゃないだろうか。幼い頃の自分の笑顔を見て、俺も笑う。
帰ろう。兄ちゃんが、待ってる。
一人ぼっちにで写ってる写真を丁寧に伸ばして、鞄の中にそっと仕舞って、俺は家までの道を歩き出した。
 
 
『フェリシアーノ』
『元気でね。忘れないでね』
『また会おうな。約束だぞ』
『うん。二人とも、元気で』
 
 
やがて夜市は完全に遠い秋の夜の夢になる。
それが、彼に再び巡るその日まで。